あなたのkugyoを埋葬する

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虚構キャラクタに対する罪 目次

「虚構キャラクタに対する罪」


 最近、ブロゴスフィアで虚構キャラクタに対する罪の問題が俎上にあがっていたので、みんなが虚構キャラクタに対して罪の意識を感じるように、分析哲学っぽく議論してみた。2008年4月27日に行った勉強会のレジュメを、当時の指摘に従って一部改訂したもの。なお、ブログ掲載という性質上名前を挙げることはしないけれども、勉強会の出席者には感謝します。


虚構キャラクタに対する罪 はじめに - kugyoを埋葬する
きょキャ1-1 われわれが殺したのか - kugyoを埋葬する
きょキャ1-2 われわれは見殺しにしたのか - kugyoを埋葬する
きょキャ1-3 われわれになにができるのか - kugyoを埋葬する
きょキャ1-4 権利なんてあるのだろうか - kugyoを埋葬する
きょキャ1-5 われわれは勝手すぎるのか - kugyoを埋葬する
きょキャ1-6 われわれはどうすればいいのか - kugyoを埋葬する
きょキャ1-7 われわれはこの議論を受け入れる必要があるか - kugyoを埋葬する
きょキャ2と3とのまとめ - kugyoを埋葬する
きょキャ まとめ - kugyoを埋葬する


以上が目次である。

虚構キャラクタに対する罪 はじめに

 「児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律」 *1に関連した、いわゆる児ポ法問題が、最近話題を呼んでいる。
 この法律の目的は、次のように示されている。

第一条  この法律は、児童に対する性的搾取及び性的虐待が児童の権利を著しく侵害することの重大性にかんがみ、あわせて児童の権利の擁護に関する国際的動向を踏まえ、児童買春、児童ポルノに係る行為等を処罰するとともに、これらの行為等により心身に有害な影響を受けた児童の保護のための措置等を定めることにより、児童の権利を擁護することを目的とする。

 この目的に関連して、「被害者のいない子どもポルノ」をもこの法律(あるいは別の法律)で規制すべきか、という問題がある。「被害者のいない子どもポルノ」とは、たとえばマンガ・アニメに見られるような、その作成過程においては子どもが関わっていないようなポルノ作品のことだと理解しておく。こうした子どもポルノも、「子ども自身が実際にこのようなポルノ画像を目にすることで被害に遭っている」という観点から、実際には被害者を作っているのではないか、というのが、規制派の一部*2の主張だ。
 以上のような問題を扱う議論はさまざまあるが、そのなかで、「被害者のいない子どもポルノ」などそもそもありえるのか、という疑問が提示されることがある。たとえばあるマンガのなかで殺害された人間がいるとしよう*3。すると、たしかにこの現実世界ではその殺害は起こっていないけれども、そのマンガのなか(虚構世界)では人間がひとり殺されているではないか、つまり被害者がいるではないか、というのである。
 しかし、そうだとして、虚構世界での殺人被害者に、現実世界のわれわれが責任を負うべきだ、罪悪感を抱くべきだ、となると、この議論はにわかには受け入れがたい。「被害者」というのはあくまで「現実世界での被害者」という意味であって、「虚構世界での被害者」など問題ではない、というわけだ。しかし、もし「被害者」に虚構世界の住人をも含めるとすれば、規制派は一貫した論理でポルノマンガを規制できることになるから、それはそれで都合がよかろう。そこで、虚構世界での不道徳行為(不法行為を含む)に、現実世界のわれわれが責任を負うべきか、という問いを、この勉強会で検討しよう。


 この勉強会は以下のように構成されている。
 第1節 虚構キャラクタに責任を負うべきか:第1項から第7項まであり、各項で以下のような問いについて考察する。
(1)「虚構世界で起きたことは、われわれの行動を原因とするのだろうか?」
(2)「虚構世界で起きることに影響を及ぼせば、われわれは道徳的責任を果たせるのではないか?」
(3)「虚構世界で起きることに、われわれは影響を及ぼせるのか?」
(4)「虚構キャラクタには権利があるのだろうか?」
(5)「われわれは他者に権利を認めてよいか?」
(6)「どうすれば虚構キャラクタに対する責任を果たすことができるのだろうか?」
(7)「道徳について議論ができるか?」
 なお、この順序について、ひとこと注記しておく。見てわかるとおり、議論の進みかたは、「この問題の答えはこうじゃね?」→「いや、そもそも前提がおかしくね?」→「あ、その問題にはこう答えればよくね?」という形になっている。たとえば(2)と(3)。これは、ふつうあまりよい議論の進め方ではなくて、むしろ私の思考の進め方に沿ったものになっている。だから、この勉強会の出席者やレジュメの閲覧者から、考察の前提にかかわる質問があった場合、「それは第n項で触れます」という返答のしかたが多くなるかもしれない。
 このような進行にした理由はひとつで、そのほうがスリリングだからだ。キングのデュエルは、エンターテイメントでなければならない!
 それから、用語法についても。第6項のはじめでまた触れるが、この勉強会での「罪」とか「責任」とか「虚構」とか「キャラクタ」とかいう言葉は、すべて最小限の意味、薄められた意味にとってもらいたい。定義が必要なら安物の辞書をひいていただければよい。


(ちなみに、2008年4月27日に行われたじっさいの勉強会レジュメでは、第2節と第3節とに、シミュレーション・アーギュメントの紹介と論駁とを入れておいた。しかし、このブログをちょっと読めば、その論駁の手順はすぐわかるだろうから、省いておく。「しまった - kugyoを埋葬する」参照。
シミュレーション・アーギュメントについては公式サイトhttp://www.simulation-argument.com/を参照。)


 それでは、虚構を分析する哲学の世界へ入っていこう。 あと、記事タイトル欄が足りないので、以降この勉強会を単に「きょキャ」と呼ぶ(勉強会当時は「きょキャ〜シュ」だった)。

*1:法令データ提供システムより。http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H11/H11HO052.html

*2:たとえばここを参照。日本ユニセフ協会・特集 子どもポルノから子どもを守るために

*3:殺人の代わりに強姦でもいいんですが、レジュメ書いててふしぎな気持ちになってくるので、ここからは殺人とさせてください。すみません。

きょキャ1-1 われわれが殺したのか

虚構キャラクタに対する罪
第1節 虚構キャラクタに責任を負うべきか
第1項 われわれが殺したのか


 フィクションのなかに登場するキャラクタに対して、現実世界のわれわれが責任を負うべきだろうか、という問題について、いくつかの論点を考えてみる。まずは(1)「虚構世界で起きたことは、われわれの行動を原因とするのだろうか?」という点を考えてみよう。
 ミステリ作品のオチとして、ときどき「読者が犯人」であることが示される。代表的な手法の1つとしては、「読者が物語を読み進めなければ、殺人が起こることはなかった。これでは読者が殺したも同然だ」というものがあげられよう*1
 ところで、この手法は、読者になにか釈然としないものを残す。読者が読み進むか途中で読みやめるかにかかわらず、被害者が殺されることは決まっていたではないか。われわれは被害者の第一発見者ではあるかもしれないが、第一発見者であるからといって責任を問われることはない。または、ページをめくっただけでその虚構世界になにか劇的な変化(殺人)が起きたとでもいうのか。
 読者に上のような不満を述べられたら、テクストは次のように応答することができる。たしかに、ページに印字された文字が変化することはもはやないが、その文字列から読者が思い描いた虚構世界は、その文字列を読者が見なければ思い描かれることがなかった世界である。したがって、殺人が起こるような虚構世界を創造してしまった点で、読者には殺人の責任がある(犯人である)のだ。
 しかし、と、読者は再反論することができる。思い描くだけのことに虚構世界をまるごと作ってしまう力があるというのは、ページをめくることが虚構世界に変化をもたらす力を持つというのと同じぐらい信じがたい。あるいは、そのていどのことでできあがってしまうようなものを、そもそも"世界"などと呼んで、そのなかのことに責任を負わなくてはならないほど重大に扱うべきだろうか。
 それに、そもそも、虚構世界で被害者を殺したのは、あくまで虚構世界のなかにいる加害者であって、その責任はその加害者に帰せられるべきだろう。虚構的加害者は虚構的殺人を行ったため、虚構的道徳を犯し、虚構的な法律に則って虚構的に裁かれる。それでいいではないか。
 この読者の再反論は的を射ていよう。たしかに、われわれが虚構的被害者を「殺した」と考えるのは、むりがありそうだ。(1)「虚構世界で起きたことは、われわれの行動を原因とするのだろうか?」は、こうして否定的に答えられた。

*1:ミステリ論の慣例に従い、ネタを割っておいて具体的な作品を挙げることはしない。ただし以下の作品は、そうしたミステリ作品の最新の変種である:深水黎一郎, ウルチモ・トルッコ 犯人はあなただ ! (講談社ノベルス), 講談社, 2007.

きょキャ1-2 われわれは見殺しにしたのか

虚構キャラクタに対する罪
第1節 虚構キャラクタに責任を負うべきか
第2項 われわれは見殺しにしたのか


 ところで、われわれが責任を負ったり、罪の意識を感じたりするのは、必ずしも自分の行動を直接的原因とすることがらに対してだけではない。当然なすべきことを見逃してしまったという場合も、責任や罪は発生しよう。そこで次に、虚構的被害者を「見殺しにした」と考えてはどうか? すなわち、(2)「虚構世界で起きることに影響を及ぼせば、われわれは道徳的責任を果たせるのではないか?」である。もしそうなら、われわれは殺害をやめさせることができるのだから、それをしなかったということはわざと「見殺しにした」ことになろう。
 読者には虚構的殺人を止める能力がありそうだ。想像によって虚構世界が形作られるというなら、思い描くのを止めればいいのだし、小説やマンガなら、修正液やペンなどを使って適当に描写を書き換えてしまうこともできる。それをせず、虚構的殺人が行われるのを黙って見ていたのだから、虚構的被害者を「見殺しにした」ことは事実である、と言えそうである。それどころか、読者はその虚構的殺人が行われるのを楽しむことすらありうるのだ。
 ただし、自分が想像をやめたり、小説の描写を書き換えたりしたからといって、その虚構世界で被害者が死なずにすんだとは言い切れない。万全を期すなら、その小説が印刷され世に出回っていると知っている以上は、当該フィクション作品のすべてを書き換えたり、発禁にしたりすべきだろう。しかし、すべてとはどこまでなのか? ある作品に殺人が描かれていることがわかったら、その作品はすべて処理すべきだろう。ではその作品をすでに読んでしまったひとや、その作品の作り手の思い描きはどうするのか? もうそんな作品のことなど思い出さないように記憶をいじるのだろうか。
 おそらく、そこには優先順位をつけるべきだろう。すなわち、60億人が殺害されるような作品は、1人が殺害されるような作品よりも倫理的にひどいことを描いているから、後者を処理する前に前者の処理に着手すべきだろう。しかし、優先順位というなら、虚構作品のことより先に現実の問題を処理すべきにちがいない。同じ1人の殺害なら、虚構世界のなかで行われたものより現実世界のなかで行われたもののほうが、現実世界にいるわれわれにとっては重大であるから、虚構作品などにかかずらうよりは、現実世界での殺人を防ぐほうを優先する責任があるだろう。
 では、現実世界での1回の信号無視と、虚構世界での60億人の殺害となら、どちらを優先すべきだろうか? この問題では、倫理的にひどいほうを優先、という考えかたからすれば、虚構世界の処理のほうに軍配が上がってもおかしくない。しかし、先に述べたように、虚構世界での殺人を防ぐには、かなり多くのコストが必要となる。信号無視なら、1度信号無視を防げば(やめさせれば)すむが、虚構世界が思い描かれるのを防がなくてはならないとなると、人間の記憶や思考を操作しなくてはならない。これは現実世界での思想の自由をおびやかすことになる。したがって、現実世界の住人の思想の自由よりも、虚構世界の住人の安全のほうがだいじ、などということでなければ、少なくとも法的な責任は問えないだろう。
 そして、さらに重大な問題がある。虚構世界での殺害を防ぐ処理を行う者は、いずれにせよその殺害を思い描いていなくてはならないのだ。全人類の記憶からその殺害を消したあとで、自分で自分に処理を施せば、なんとかその問題を回避できるが、それでは、だれも虚構世界での殺害について考えることができなくなってしまうので、次に起こる(起こるとしてだが)虚構世界での殺害を未然に防ぐことができなくなってしまう。これでは、虚構世界での殺害への対策は、じっさいにその殺害が虚構世界で行われてからでなくては防げない、という奇妙なことになってしまう。
 こういうわけで、(2)「虚構世界で起きることに影響を及ぼせば、われわれは道徳的責任を果たせるのではないか?」については、「その実行の有用性は極めて疑わしい」と答えるべきだろうか。いや、そもそも原理的に言って、虚構世界で起きることに、われわれは影響を及ぼせない、という場合を、まだ検討していなかった。つまり、マンガを適宜描き変え、読者全員の記憶からその虚構的殺人を抹消したとしても、それとは関係なく、その虚構的殺人は起こっているのではないか、という問いが、まだ手付かずなのだ。そこで次にはその問題を考えてみる。

きょキャ1-3 われわれになにができるのか

虚構キャラクタに対する罪
第1節 虚構キャラクタに責任を負うべきか
第3項 われわれになにができるのか


 こういうわけで、次には(3)「虚構世界で起きることに、われわれは影響を及ぼせるのか?」という問いを考えよう。
 まず、虚構世界でのできごととは、それが現実世界で描写されるまでは存在しないものである、としてみよう。いわば“虚構描写依存説”だ(逆の場合は“虚構独立説”だろうか)。もしそうだとすれば、現実世界での描写(現実世界の住人の記憶も含む)がなくなれば、当該の虚構世界でのできごと(この場合は殺人)もなくなる、ということになろう。しかし、そこで消えるのはできごとだけであろうか? 殺人が行われていたもとの虚構世界aと、書き換えられたために殺人が起きない新たな虚構世界 とは、じつはまったくの別物であるかもしれない。『ハックルベリー・フィンの冒険』の登場人物ハックが指し示す人物は、書き換え前のaと書き換え後のa'とで異なっているかもしれないのだ。
もしそうなら、われわれは現実世界での描写を変更することで、もとの虚構世界aを殺人ごと抹消してしまったことになる。われわれは世界を消滅させることにどのような道徳観念を当てはめればよいのか知らないけれども、少なくともそれに付随して虚構世界の住人をも抹消してしまったのだから、大量殺戮に相当することを行っていることになるだろう。これでは本末転倒である。
 では、現実世界の描写を変更しても、変更されるのはできごとだけであり、その虚構世界aじたいは抹消などされない、と考えればよいのか? じつはこの考えかたは非常な無理を犯している。極端な例を考えてみよう。小説『ハックルベリー・フィンの冒険』のすべての語句を書き換えて、登場人物も舞台も時代背景もまったくの別物にしてしまったとする(新しいタイトルは『村上ハルキの憂鬱』としておこう)。変更されるのができごとだけだとすると、このようにどれほど小説を書き換えようと、書き換えたもとの小説があるのなら、それは同じ虚構世界でのできごとを描いたものである、ということが帰結する。しかし、『村上ハルキの憂鬱』が、『ハックルベリー・フィンの冒険』を修正液で消したあとの紙にではなく、まっさらな紙に書かれていたなら、それは『ハックルベリー・フィンの冒険』とは別の虚構世界を描いていたことになったはずである。その描写が記されたものの材質によって虚構世界のありかたが変わるとは、どうにも奇妙ではないだろうか。あるいは、こうした書き換えを繰り返し、同じ紙のうえにさまざまな小説を書いては消し、書いては消し……した場合、すべての小説が同じ虚構世界を描いていることになる、ということにもなってしまう。
 また、虚構世界は現実における描写とは独立に存在しており、現実における描写はすでに存在しているある世界を発見しているだけだ、と考える(“虚構独立説”)ならば、われわれにはその虚構世界に手出しする方法がない。現実における描写を変更しても、新たな世界が発見されたことになるだけであって、もとの(殺人が行われた)世界では、あいかわらず殺人が起こっているのである。
 以上から、(3)「虚構世界で起きることに、われわれは影響を及ぼせるのか?」については、(2)とも重ね合わせて次のように(ややずれた)答えを出しておくことにしよう。
1. 虚構世界は現実に描写されるまで存在しない(影響を及ぼせる)とすれば、作品改変に道徳的有効性はないか、またはすべての小説は1つの虚構世界を描いている。
2. 虚構世界は現実における描写とは独立に存在する(影響を及ぼせない)とすれば、作品改変に道徳的有効性はない。
 1.のかなり荒唐無稽な帰結を受け入れることは難しい。よってここでは、2.を結論として受け入れよう。

きょキャ1-4 権利なんてあるのだろうか

虚構キャラクタに対する罪
第1節 虚構キャラクタに責任を負うべきか
第4項 権利なんてあるのだろうか
 ところで、いくら見殺しにしたとはいえ、相手は虚構世界のなかにいるのである。われわれはそんな相手に責任を感じる必要があるのだろうか? つまり(4)「虚構キャラクタには権利があるのだろうか?」である。もし権利がないのなら、いくら見殺しにしようと道徳的問題はないことになる。石が蹴られるのを見逃しても、われわれにはなんらの責任も生じない。
ここで、石や虚構キャラクタに権利があるかどうかを調べるために、この問題を動物の権利の問題と類比的に論じてみよう。われわれは人間に権利を認めることにはとりたてて異論をとなえないが、動物にも権利を認めようという議論は、虚構キャラクタにも権利を認めようという議論同様、激しい反発にさらされるだろうからだ。
 哲学者ピーター・シンガーは、『動物の解放』*1のなかで、多くの人間が人間以外の動物に権利を認めないのは、彼らが「種差別主義者」であるからであり、女性差別や人種差別に反対するのと同様、種差別にも抵抗すべきだ、と述べた。彼はベンサムを引きながらこう論ずる。

 もしある当事者が苦しむならば、その苦しみを考慮に入れることを拒否することは、道徳的に正当化できない。当事者がどんな生きものであろうと、平等の原理は、その苦しみが他の生きものの同様な苦しみと同等に――大ざっぱな苦しみの比較が成り立ちうる限りにおいて――考慮を与えられることを要求するのである。もしその当事者が苦しむことができなかったり、よろこびや幸福を享受することが出来ないならば、何も考慮しなくてよい。
(『動物の解放』p.32)

 こうして、苦しむことができない石には、権利がない、ということになる。しかし、石が実際に苦しんでいるかどうかは、われわれにはわからないかもしれない。もちろんシンガーもこのことには気づいており、あるものが苦しむ能力を持っていることを認定する基準について、彼は次の3点を示している*2

  • 苦痛を推測させる外的徴候のほとんどが、人間のそれとよく似たものであること。
  • 人間とよく似た神経系を持っていること。似た神経系にまったく異なる感覚が生まれていると考えることには、合理的理由がない。
  • その神経系は、人間と同様の進化をたどったものであること。ロボットも人間と似た神経系を持ちうるし、苦痛を推測させる外的徴候をも持ちうるが、それは人工的に作られたものである。*3

動物は以上の3点を満たすが、石や植物は満たさない。こうして、シンガーは動物にも権利を認めるのが合理的である、と主張するのだが、この議論を虚構キャラクタについて適用するとどうなるか。
 まず1つめ、苦痛を推測させる外的徴候はどうだろう。虚構のなかにはありとあらゆるキャラクタが出てくるけれども、そのうち少なくともいくつか*4は、人間同様に、雄弁に私たちに快苦を表現してみせてくれる 。さらに、虚構キャラクタは、現実世界の他人よりずっと明確に快苦を伝えてくれると言えるかもしれない。なぜなら、現実世界の他人がなにを考えているかはわれわれにはわからないが、虚構キャラクタは、心内発話をもわれわれに聞かせてくれるからだ。逆説的なことに、虚構キャラクタは、現実世界のだれよりも「私」に近い位置にいるとすら言えるのである*5
 しかし、外的徴候とは言っても、たとえば虚構キャラクタを現実世界のナイフで刺したら苦しがった、といったようなことはないではないか、という反論があろう。それに対しては、人間以外のものに苦痛を与えるのには、人間に苦痛を与えるのとは異なる方法が必要かもしれない、と再反論することができる。シンガー自身は次のような例を挙げている。

もし私が平手で馬の尻をぴしゃりと強く打ったとすれば、馬は歩き出すかもしれないが、おそらく痛みは感じないだろう。馬の皮膚は十分に厚いので、人間の平手打ちくらいではたいしたことがないのである。
『動物の解放』p.40

虚構キャラクタに苦痛を与えるには、現実世界のナイフを使ってもだめであって、当の虚構世界の内部でナイフが使われなくてはならないのである。そしてそのときには、多くの虚構キャラクタは、われわれが現実にナイフで刺されたときとまるで同じように、苦痛を推測させる外的徴候を示すだろう。
 2つめは神経系の問題である。これも、人間に似た虚構キャラクタで、たとえば虚構内で解剖されたものを考えれば、現実世界の人間と差別する理由はなさそうである。彼らの神経系は虚構的神経系であるにしても、とにかくわれわれのものとまったく違うということはないのである。もし違っているなら、われわれは「ハックは脳を持っている」などということを信じられなくなってしまうだろう。けれども、われわれが常に明確に意識しているわけではないにせよ、『ハックルベリー・フィンの冒険』のなかのハックが脳を持っていることに、とりたてて異を唱えることができるとは思われない。
 ただし、彼が持っているのは「虚構的神経系」であって「(現実の)神経系」ではない、と反論することもできよう。ただし、そう反論するひとは、「(現実の)人間の神経系」により近いのは、「(現実の)動物の神経系」と「虚構的神経系」のどちらであるか、という問いに答えなくてはならない。
 3つめについても同様の議論ができよう。その虚構世界の生物学がわれわれのいる現実世界の生物学と異なった結果を出している、と言うことにじゅうぶんな理由がなければ、虚構世界でも現実世界で起こったのと同様の進化が起きていると考えるべきだろう。
 かくして、動物の権利を認める者は、虚構キャラクタにも同様に権利を認めるべきだ、ということになりそうである。「もしある当事者が苦しむならば、その苦しみを考慮に入れることを拒否することは、道徳的に正当化できない。」という格率を受け入れるならば、虚構キャラクタにもなんらかの権利を認め、それが侵害されないよう配慮する責任が、われわれにはあるのだ。
 ところが、この(4)「虚構キャラクタには権利があるのだろうか?」に対する答えと、(1)〜(3)までの議論を組み合わせると、奇妙なことが起こる。われわれは、虚構キャラクタのためになにかしてやることはまったくできない。にもかかわらず、彼らの権利を認めなくてはならないのだとすると、はたしてわれわれはどうすれば虚構キャラクタに対する責任を果たすことができるのだろうか?
 この問いに答えるには、「責任」とか「罪」とかいった概念をもう少し詳しく分析する必要がある。それに取り掛かる前に、もう1つ、根本的な問題に取り組んでおこう。

*1:ピーター・シンガー(著)、戸田清(訳)、動物の解放、(技術と人間、1988)

*2:『動物の解放』pp.34-36

*3:もう少し詳しく解説すると、こういうことになる。「苦痛を感じる」という必要最低限の危険感知システムは、進化のかなり早い段階で完成したと考えるべきで、それを持たない生物は生き残れなかっただろう。なお、植物はそれを感知しても逃げられないから、そもそも危険感知システムを持つ必要がなかった。だから人間同様の進化をたどって同様の神経系を持った生物には、おそらく危険感知システムとしての苦痛がある。しかし、ロボットのように淘汰圧にさらされずに作られたものの場合、同じ神経系相当のものを持っていても苦痛がない場合がありうる。なぜなら危険感知システムがなくてもロボットの登場には問題がないからである。

*4:宇宙人やロボットの虚構キャラクタもいるが、それは除いておく。もし議論に必要なら、それら人間に似ていないものは虚構キャラクタとして扱わない(それはおそらく、虚構のなかのただの物体なのだろう)、ということもできる。これらの取り扱いについては、現実世界での宇宙人やロボットの取り扱いにもよるかもしれない。

*5:語り手が1人称でウソをつく、といった場合もありうる。だがその場合は、われわれは語り手の心内発話を知ることができたのではない。語り手の語りを聞いているか読んでいるだけなのだ。

きょキャ1-5 われわれは勝手すぎるのか

虚構キャラクタに対する罪
第1節 虚構キャラクタに責任を負うべきか
第5項 われわれは勝手すぎるのか


 われわれは、この勉強会が始まる前には、虚構キャラクタに権利を認めてこなかった。そこでここまでの議論では、なんとかして虚構キャラクタに権利を認めてやろう、という"虚構解放論者"の立場が、いったい合理的に正当化できるものだろうか、という点を検討してきた。
 じつは、"虚構解放論者"の主張には1つ隠れた前提がある。つまり、「なにに対してであれ、それが合理的に正当化できるならば、なにも権利を認めないよりは、何らかの権利を認めてやったほうが、道徳的によい」というものだ。そうでなければ、わざわざ既存の社会通念をひっくり返してまで虚構キャラクタに権利を認めようという動機が薄れるだろう。しかし、この前提は正しいだろうか。すなわち、(5)「われわれは他者に権利を認めてよいか?」、を考えてみよう。
 なんであれ、権利を認める、という言い方は、すでに権利を認める力(これも1つの権利であろう)を持っている者が、権利を持たない者に対して行う言い方である。ということは、こうした権利の認定行為は、強者の権利概念を弱者に押し付けていることになる。これは1つの暴力ではないか?
 こうした議論はむりな言いがかりではなく、フェミニズムやポスト・コロニアリズムの分野では、じっさいにこのような問題が検討されている。たとえば、フェミニストイスラム文化圏の抑圧された女性に権利を認めると言うとき、認めているフェミニストはその女性たちに西洋近代的な権利を押し付けていることになり、それはイスラム文化の破壊につながるのではないか、というぐあいである。フェミニストがしてよいのは、「こういう権利というものをあなたがたも持つことができるよ」という可能性を示し、また自らで声をあげはじめた者に協力するところまでであって、「女性だからとにかく解放すればよい」という形で積極的に抵抗運動をすることは、文化破壊やむしろ"女"という概念の強化につながってしまいかねない、というのだ。*1
 こうした現代思想的な慎重さにはもっともな面もあり、無視してよい議論ではない。しかし、ここでは2種類の返答を使って、"虚構解放論者"の前提を擁護することができる。
 第1に、「相手に権利を押し付けない」ことをよしとするのは、すでに相手に「権利を押し付けられない権利」を認めているからではないか。だとすれば、われわれは上記の懸念によって、権利を押し付けることも押し付けないこともできなくなってしまう。そのような信念は間違っているだろう、というものだ。
 ただし、これに対しては、相手に「権利を押し付けられない権利」を認めているから相手に権利を押し付けないのではなく、文化的帝国主義に加担することがいやだから押し付けないでいるのだ、という再反論がありうる。抑圧されている当の相手のことなど問題ではなく、もっと大きな状況を改善したいのだ、というわけだ。そこで、"虚構解放論者"擁護のためには、次の第2の反論を組み合わせておくことが有効だろう。
 第2の返答では、その相手が「権利がほしい」と自ら声をあげた、まさにその瞬間のことを考える。この状況でなおも彼ら に協力しないのは、上記のような懸念を持つ者たちにとっても道徳に反することであろう。しかし、この段階では、まだ相手に権利を認めていないことに注意しよう。
 ここで奇妙なことが起こる。「権利がほしい」という発話*2は、通常、もちろん「権利がほしい」という意味に解釈される。しかし、彼らが「権利がほしい」と言ったからといって、それが「権利がほしい」ということを意味するということが、なぜ保証されるのだろうか?
 同型の問題は、権利ということを考慮しなくても発生する。あなたが「これは1匹のカバです」 と発話したからといって、私はなぜその発話が「これは1匹のカバです」ということを意味すると考えるのだろうか?
 このような問題には、哲学者ウィトゲンシュタインが使ったことで有名な「言語ゲーム」という比喩に則って返答することができる。言語とは、「これは1匹のカバです」という発話が「これは1匹のカバです」ということを意味する、というようなルールを持ったゲームなのである。われわれはそのゲームの参加者であり、相手も自分と同じルールに従っているものと判断してゲームをするのだ。
 さて、こうした言語観と、先に述べた懸念とを組み合わせると、どういうことになるか。彼らが「権利がほしい」と発話したとき、それをわれわれが「権利がほしい」という意味だと解釈するのは、彼らに"言語ゲームへの参加権"を認めているからではないか。ここには、彼らがわれわれのルールに従いうる者である、という前提がある。権利の押し付けは、対話がはじまったその瞬間に起こるのである。*3
 すると、相手への権利の押し付けをいったん拒否したならば、彼らとは対話することすらできない、ということが帰結する。こうなると、彼らに権利を認める機会は訪れない。それどころか、この議論は異なる文化的集団間の場合だけでなく、異なる2者間の場合にも拡張できるので、われわれはそもそも他者に権利を認めることがまったく許されない、ということになる。これはもはや権利とは呼べまい。
 以上2点の議論から、"虚構実在論者"やピーター・シンガーが依拠していると思われる前提は、じゅうぶん擁護されたと思う。(5)「われわれは他者に権利を認めてよいか?」については、肯定的に返答が与えられた。

*1:このへんの理解はかなり怪しい。より進んだ内容に興味がある場合、ポスト・コロニアリズムについてはたとえばHage, 1998を参照。(和訳もある。ガッサン・ハージ(著)、保苅実・塩原良和(訳)、ホワイト・ネイション-ネオ・ナショナリズム批判平凡社、2003)。)

*2:わかりにくければ発話については「ケンリガホシイ」という発話だと考えよ

*3:以上の議論は、フェミニストが現地語をしゃべれば解決する、というようなものではまったくないことに注意。「1匹のカバ」の例では、私もあなたも日本語で(正確には、日本語と解釈されるような音声で)発話しているが、それでも問題は起こっている。

きょキャ1-6 われわれはどうすればいいのか

虚構キャラクタに対する罪
第1節 虚構キャラクタに責任を負うべきか
第6項 われわれはどうすればいいのか


 では、こうして足場を固めたところで、予告したとおり(6)「どうすれば虚構キャラクタに対する責任を果たすことができるのだろうか?」を考えてみよう。
 じつは、いままでの議論では、「道徳」とか「罪」とか「権利」とか「責任」とかいう言葉を、特に分析せずに使ってきた。なんであれわれわれが「権利」とか「罪」とかと呼びうる必要最小限のことを、ここまで「権利」とか「罪」とかと呼んできた、と言ってもいい。
 しかし、たとえば「罪」という概念には、いくつかの下位分類があろう。これらをいっしょくたにして議論を進めてしまったところから、われわれは第4項で「権利を認めなくてはならないが、どうすればいいかわからない」という奇妙な帰結にいたってしまったのであった。
 「罪」概念の分類で有名なのは、『責罪論』*1 におけるヤスパースの議論である。彼は「罪」を4つに区別する。すなわち、(a)刑法上の罪、(b)政治上の罪、(c)道徳上の罪、(d)形而上的な罪、の4つである。この分類は、どのような行為について成立するか、その審判者はだれか、という違いによって分けられたものだ。たとえば政治上の罪については次のようである。

この罪は為政者の行為において成立し、また私が或る国家の公民であるために、私の従属する権力の主体でありかつ私の現実生活の拠って立つ秩序の主体であるこの国家の行為によって生ずる結果を私が負わなければならないという場合に、その公民たる地位においてこの罪が成立する。(中略)審判者は、内政上でも外政上でも、戦勝国の権力と意志である。
(『責罪論』pp.42-43)

 ヤスパースの議論はもともとドイツの戦争の罪についてのものなので、こうした分類が必要である。たしかにこうした罪は、1国の国内の刑法で裁けるものではないから、刑法上の罪と分けることは理にかなっていよう。そこで今回は、この区分に従って議論を進めることにする。
 さて、現在、虚構キャラクタへの罪の成立を認める刑法、というのは存在しないようである。また、それが今後もおそらく存在しないであろうことは、第1項での議論から明らかであろう。ということは、虚構キャラクタに対するわれわれの罪というのは、(c)道徳上の罪、(d)形而上的な罪、のいずれかであるということになる。
 ヤスパースは道徳上の罪については次のように述べる。

私が結局はどんな場合にも私一個人としてなすすべての行為について、しかも私のすべての行為について、(中略)私は道徳的な責任がある。(中略)審判者は自己の良心であり、また友人や身近な人との、すなわち愛情を持ち私の魂に関心を抱く同じ人間との精神的な交流である。
(『責罪論』p.43)

この罪は虚構キャラクタへの罪となりうるだろうか? そうではない。なぜなら、第3項で見たように、私の行為はなんであれ、虚構世界に影響を及ぼすということがないからである。ということは、私の行為についての私の道徳的な責任は、虚構キャラクタとは関わりを持たない、ということだ。
 残るは形而上的な罪である。ヤスパースは形而上的な罪について、次のように述べる。

そもそも人間相互間には連帯関係というものがあり、これがあるために人間は誰でも世のなかのあらゆる不法とあらゆる不正に対し、殊に自分の居合わせたところとか自分の知っているときに行われる犯罪に対して、責任の一半を負わされるのである。(中略)審判者は神だけである。
(『責罪論』pp43-44)

 このように形而上的な罪は、自分のやっていないことに関する罪である、という点で、他の罪とは異なる*2。そしてこの定義は、虚構キャラクタへの罪について、非常によく当てはまっているように思う。
 ヤスパースが述べているのは現実世界の人間たちの連帯関係についてであるが、これを拡張して、すべての世界にいるありとあらゆる知的生命のあいだにも、ある種の連帯関係があると見なすことができる。現実世界ではない虚構世界で不正が行われた場合には、私たちにはその不正をどうすることもできないのだが、それでも責任が負わされるのである。じじつ、ヤスパース自身、形而上的な罪の例として、私が他人を殺害を阻止しないで手をつかねていた場合に感じる罪の意識、というものをあげているのだ。
 では、われわれに虚構キャラクタへの形而上的な罪があるとして、われわれはどうすればよいのか。ヤスパースは「罪の結果」という項目を立てて議論している。これはなかなかうまい立て方で、「罪をつぐなうには」ではなく「罪の結果として何が起こるか」を論じているので、原理的につぐないえない罪をも扱うことができる。ヤスパースは次のように述べる。

形而上的な罪の結果としては、神の御前で人間の自覚に変化が生ずる。誇りが挫かれる。内面的な行動によるこの生まれ変わりは、能動的な生き方の新たな源泉となることができる。
(『責罪論』p.49)

 ここで、「自覚に変化が生ずる」とあり、「変化しなければならない」とあるのではないことが重要である。形而上的な罪を自覚した人間にとっては、その瞬間に自覚の変化が単に起きてしまうのであり、したがって能動的なつぐないはありえない。
 では、どのような変化が生ずるのか。ヤスパースに従えばそれは「誇りが挫かれる」、つまりわれわれが自身の無力さを自覚するようになる、ということになろう。虚構キャラクタに関して言えば、われわれはどんなに愛する虚構キャラクタについても、彼になにかをしてやることができない。彼がどれほど苦しめられていても、われわれには救いの手を差し伸べることはできず、だまって見ているよりほかないのである。もちろん、別の虚構世界に目を向けることによって、望ましいものを見出すことはできる。2次創作などはこうした願望を満たすだろう。しかし、そうして新たに発見した虚構世界にいるのは、(第3項での議論からして)われわれが愛したその彼とは異なるキャラクタなのである。
 ついでながら、ここにおいて、われわれは2次創作に関するそこはかとない違和感を明確化し、正当化することができる。2次創作によって、たとえばある虚構キャラクタの願望を成就させようとする者は、じっさいにはその虚構キャラクタの願望を成就させているのではなく、別の(自らに都合のよい)虚構世界に目を向けただけなのである。その者は最後まで当の虚構キャラクタを正視しつづけることができなかった。ありていに言えば、愛が足りないのだ。
 以上から、(6)「どうすれば虚構キャラクタに対する責任を果たすことができるのだろうか?」については、「虚構キャラクタに対しての罪は形而上的な罪であり、われわれはそれを自覚することで、いやおうなしに自らの無力さを知る」と答えることにしよう。このことは、逆説的に、現実世界に及ぼせるわれわれの力の巨大さを示してくれる。「虚構世界のことはどうすることもできないが、現実世界を変えることはできる」という形で、現実世界について深く考え、能動的に行動する源泉となるのである。

*1:Karl Jaspers: "Die Schuldfrage"(Lambert Schneider, Heidelberg, 1946). 本勉強会のためには以下の和訳を使った:ヤスパース(著)、橋本文夫(訳)、『責罪論』(理想社, 1965)。

*2:政治上の罪は自分ではなく為政者の行為によって成立するけれども、だからといって自分の行為と関係がないわけではない。その為政者を選択した、あるいは選択できないまでも政治に関して無関心だった、にもかかわらず国民としてその国が提供する利便を享受したという点では、われわれ個人の責任でもある。

きょキャ1-7 われわれはこの議論を受け入れる必要があるか

虚構キャラクタに対する罪
第1節 虚構キャラクタに責任を負うべきか
第7項 われわれはこの議論を受け入れる必要があるか


 こうしてわれわれは、虚構キャラクタへの責任、という概念を分析し、それ以前にはなかった洞察にたどりついた。しかし、じつはまだ1つ、問われていない問題が残っている。それは(7)「道徳について議論ができるか?」という問いである。
 第5項で見たように、道徳上の罪や形而上的な罪を、他人が審判することはできない。ということは、いくら議論したところで、ある人にその罪や責任を自覚させることはできないのではないだろうか。つまり、罪の意識というのは、当人があると思えば必ずあるのであり、ないと思えばありえない、というような性質のものではないだろうか。
 これに対しては、次のような例を考えてみることが助けになる。あなたが待ち合わせに遅刻したと思って、銀の鈴かなんかに急いでいるとしよう。走りながら、あなたは待ち合わせ相手が機嫌を悪くしたら困るな、と、自分の損得を考えるのと同時に、相手との約束を破ってしまって申しわけない、という道徳的な罪の意識を感じるはずである。さて、銀の鈴に到着してみたところ、相手の姿が見えない。そこへ事情を知っている私(私はあなたのストーカなのだ)がやってきて、「待ち合わせは明日じゃありませんでしたか」と知らせる。今日待ち合わせだというのはあなたの勘違いで、あなたは実際には約束を破っていなかったのだ。このとき、あなたの罪の意識はどうなるだろうか。
 実際には約束を破っていなかったとはいえ、もし今日が待ち合わせであれば破っていたことになるのだから、罪の意識は残りつづける、という考え方もできなくはないが、多くのひとは、自分が約束を破っていなかったことに安堵し、罪の意識をなくすであろう。
つまり、他人からの情報によって、道徳的な罪をなくすことができる場合があるのだ。それならば、われわれのこうした議論によって、道徳的な罪や形而上の罪があることを知る、という場合も、あっておかしくはなかろう。
 こうして(7)「道徳について議論ができるか?」に対しては、「できる」と答えられる。

きょキャ2と3とのまとめ

 ブログ上ではめんどくさいので省略するが、じっさいのレジュメでは、第
2節と第3節とで以下のような議論が展開された。

  • ボストロム「“文明滅亡”と“知的好奇心”を生け贄に……儀式魔法“シミュレーション・アーギュメント”ッ!! “汎虚構主義”を儀式召・喚ッ!」
  • おれ「“汎虚構主義”だと! だが、ボストロムの見解では、“汎虚構主義”が現実の道徳に及ぼす影響はほとんどないはず……」
  • ボストロム「ざんねんだったな! キサマの“虚構キャラクタへの罪”は、その成り立ちからして、現実と虚構とを区別できることに深く結びついている! ゆけ“汎虚構主義”! 現実を虚構色に染め上げろ!」
  • おれ「なんてことだ……おれたちの戦いは無意味だったのか? いや、そんなことはないはずだ! おれはこのドローにすべてを賭けるぜ!」
  • シュッ。
  • おれ「これは……! どうやらオマエ、自分で墓穴を掘ったな! オマエの“ゼロからの論証”を、オレも使わせてもらうぜ!」
  • ボストロム「なに!?」
  • おれ「まずいちまいめ! 魔法カード“対角線論法”! このカードの効果で、nからn^2への全単射を作り出す!」
  • ボストロム「ベキ集合より小さい集合を与えるために“対角線論法”を利用したというのか……!」
  • おれ「つづいてにまいめ! “無限の多宇宙”! このカードはnを無限大にとばす効果を持つ!」
  • ボストロム「くっ、だが、われわれには宇宙の個数を無限大だと信ずるべき理由はないはずだ!」
  • おれ「そいつはどうかな。このカードがおれの切り札だ! 召喚! “モーダル・リアリズム”!!」
  • ドン☆
  • ボストロム「ばかな……オレのコンボは完璧だったはず……」
  • おれ「これが現代思想分析哲学との結束の力だ! くらえ、ポッシブルッ・ワーールドッッ!!」

きょキャ まとめ

 結論を再掲すれば、虚構キャラクタに対しての罪は形而上的な罪であった。そしてその罪への自覚が、われわれをいっそう虚構を愛するようにし、またいっそう現実を愛するようにもするのだ。
 ただし、上記の結論に反駁する方法はいくつかある。

  • 第3項で見たように、すべての小説は1つの虚構世界を描いていると考えること。こうすれば、作品改変でその虚構世界のできごとを変更することが可能になる。ただし、この場合にはわれわれは日常的に大量の見殺しを行っていることになるだろう。
  • 第4項で見た、ピーター・シンガーの議論に反駁すること。道徳概念の根拠として、たとえば「信頼」や「応答可能性」を持ち出すことができよう。ただし、それが虚構キャラクタに適用できないことを示すのはやっかいであると思われる。たとえばこの記事をも見よ。虚構キャラクタの人権 - kugyoを埋葬する
  • 第4項で見た、「虚構的神経系」の問題。「(現実の)人間の神経系」により近いのは、「虚構的(人間の)神経系」ではなく「(現実の)動物の神経系」に近いのだ、ということを言えればよい。ただし、この場合、論点先取にならないようにする、つまり「虚構と現実とは違う」と前提しないで議論するのは相当に難しい。
  • 第5項で見た、ヤスパースの罪の分類に反駁すること。ヤスパースの分類が網羅的なものである保証はない。また、行為者と審判者とによっての区分以外にも、罪の分類はできるかもしれない。

 特に、罪の分類についてはもっと詳しい議論が望まれるが、私はそれを喜んでのちのひとのためにとっておく。


 参考文献

(なお、『責罪論』は以下に改訳されている:カール・ヤスパース(著)、橋本文夫(訳)、『戦争の罪を問う (平凡社ライブラリー)』( 平凡社、1998))