あなたのkugyoを埋葬する

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川上未映子について

 さて本題である。
 「群像」2007年10月号に載った田中弥生の「痛くない歯の唯痛論」は、川上未映子わたくし率 イン 歯ー、または世界』の表題作への評なのだが、この評でどうやら、『わたくし率イン歯ー、または世界』に川上が入れた仕掛けの拾い上げはひと段落したのではないか。
 川上は『わたくし率イン歯ー、または世界』について、初の小説なのでいろいろ工夫をこらした、というようなことを言っていて*1、それをヒントにしてこの小説を読み返してみれば、そのような工夫はいくつも見受けられる。
 ストーリー上では、まず終盤で語り手の信頼できなさが青木の彼女によって完全に暴露されるところ。たまに『わたくし率イン歯ー、または世界』への書評で、「主人公らしき女の意味不明な文章の羅列」のように述べるものが見受けられるが、そういう書評の送信者は途中で読むのをやめたのだな、ということがわかる。
 さて、もちろんその信頼できなさは唐突なものではなくて、「新潮」2007年10月号で豊崎由美が指摘するような日記の時系列の混乱であるとか、歯医者の所在地の話とか、要するに伏線はたくさんあるのだ。
 また田中の評ではそのような豊崎の読みに加えて、

この「歯が痛くならない」は、「歯さえ痛くない=どこも痛くない」ではない。それが意味しているのは実は「歯以外は全て痛い=生がほぼ全部痛い」なのである。

と、歯の話がすでに語り手が受けてきた蹂躙を示唆していたのだ、ということも見抜いている。
 さらに田中の評での白眉*2は、川上作品に共通しているがために「川上の個性」として見過ごされがちな、語り手の関西弁*3ですらも伏線として使われていた、ということを示したことだろう。

 作品の重要な要素は関西弁だが、それが重要なのは、音曲的に優れ使いこなされているからだけではない。それがふるさと、母、身体、痛さの言葉だからである。本作では女だけがその言葉を使って語り手をいじめ抜く一方、男は標準語を用い、身体的実感を免除されて、ぼんやりと女たちの葛藤を眺めている。

 川上が自分にとって使いやすかった関西弁を逆手にとって小説に利用していることがわかる。


 以上のように、仕掛けを徹底的に暴かれた『わたくし率イン歯ー、または世界』が、それでも何かを残しているのか、もっと言えば、たとえば『わたくし率イン歯ー、または世界』に併録された『感じる専門家 採用試験』はどのように論じることができるのか、が、今後の川上研究について興味あるところだ。
 読んでも吐かないし泣かない、非常に理知的に組み立てられた、書評家の餌食となるために書かれたような作品である『わたくし率イン歯ー、または世界』だが、では川上は使える武器をまだ手元に残しているのだろうか。

*1:どこで発言していたのだか忘れた。いちおう、ある大学の講義にゲストとして呼ばれたときにしゃべっていた、という記憶をソースとしておく。

*2:この「白眉」の使い方はどう考えてもおかしい。

*3:河内弁だっけか。