Xは遊星からの物体
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はてなキーワードはウルトラセブンXになっているが、『ULTRA SEVEN X』を見た(Epiosode1 DREAM)。主人公(心内発話が語られる)は自己に関する記憶がなく、それであるのに巨大な姿に変身して戦闘して別の巨大生物をやっつけた直後、「じんるいをまもろう」という決意を固める。こりゃ脚本の小林雄次を疑う前に、まず考えるべきことがあるだろうと思って、放映直後に2ちゃんねるの当該スレッドを見たけれども、アイスラッガーの切れ味についてしか書いてないのであきらめた。
アイスラッガーをはじめ日本の特撮で剣や刃物とされているもののたいがいはいまやその正体が鈍器であって、最近の仮面ライダーではフェンスなどの細い針金でもたまにしか切断できない。せっかくの深夜で、しかもヒラヒラしたものがたくさんついている敵が相手だったのに、それでも切断がなされなかったということは、おそらく作り手にとって、あんな大きいものが鋭い刃物であるということが現実的に感じられなかったのだろう、と思う。
まあそれはよい。
主人公が「救世主」などと美人のおねーちゃんにおだてられて、そのうえ変身までしちゃって大ハッスル、じんるいをまもる決意を固めるというのは、そんなにむちゃくちゃでもない。ウルトラマンだとか仮面ライダーだとかの変身ものを見慣れているひとにとっては、変身なんてどうということもないのだけど、それが実際に起こったらグレーゴル・ザムザでもないかぎりずいぶん異常な心理状態になるだろう(というようなことを利用した小説を中学生ぐらいのときに書いたねわたしゃ、なつかしい)。
そしてこういう筋は使い古されているのでだれも言っていないのかもしれないが、主人公はじつは「救世主」ではない、というのはよくある話だ。詳しく言うと、今回「エイリアン」とされている「われわれはこうみょうにこまをしのばせ、しょうりのきかいをうかがってきた」と言っている連中(「エイリアン」)こそが、じつは守るべき(というか、受容者に近い)人類であり、「ガルキメス」と公式サイトで紹介されたものは、人類(=「エイリアン」)がエイリアン(=「じんるい」)の支配から脱出するための装置だったのだ、という話だ。
サングラスの男たちは『メン・イン・ブラック』などで表象される、UFO研究者に警告を与える存在(メン・イン・ブラック - Wikipedia)つまりどうやら人類の側を示しているように読める。つまりそのサングラスの男たちこそエージェントと呼ぶべきで、「DEUSのエージェント」と呼ばれている主人公たちはその人類の反抗を抑えるためのエイリアン側の暗殺者なのではないか?
「エイリアン」は何かふしぎな乗り物で移動していたが、今回「じんるい」と「エイリアン」とのあいだで技術レベルにそう差はないのだから、どっちがどっちに乗っていても特におかしくはない。DEUSのビデオシーバーのAntiGravity能力なんてのはおくとしても、報道映像を流す装置が日常的にそのへんを浮遊している世界なのだ。
劇中「エイリアン」(=人類)はこの世界の権力中枢にも忍びこんでいると発言しながら、その直後「ガルキメス」が巨大化して街を破壊してまわる。しかしこれだってレジスタンスの常套手段ではなかろうか。「エイリアン」(=人類)を「じんるい」(=エイリアン)の支配から解放したいなら、権力を握るだけではだめで、そのことを武力をもって示さなくてはならない。そうでないとたとえば地下生活を送る「エイリアン」はいつまでも解放されないだろう。
不自然さを「脚本のミス」として排除する前に、そのような点を含んだ解釈を試みるべきだ*1。
ちなみに、作者は脚本でミスをする(矛盾を含んだ虚構世界を書いてしまう)ことがありうるけれど「想定された作者」はミスをしない、ということを、まえにだれかに言った気がする。これはちょっと言い過ぎで、ミスをしたような作者を想定することももちろん可能だ。そうではなくて、「想定された読者」には、不自然さを作者のミスと判断するような読みは期待されていない、と言うべきだろう。「解釈共同体」になるとまた話はややこしくなる。
*1:むろん、なぜ「べき」か、ほんとうに「べき」かは論じる必要がある。でもそれはそのうち。他のところでは書いたけど。