するする問い問い
もちろん、いくら調子よく書いていたって、私も自分の文章を推敲しないわけではないから、皮肉のように読める部分はたいていほんとうに皮肉のつもりで書いているし、感想文を提出するときはそれが自分の感受性ごと否定や反発の対象にされるだろうことも知っている。
「よい」「退屈だ」「かっこいい」「甘い」「二番煎じ」というのは、ある意味ではどこまでもとうぜん感想であり、その個人のいきあたりばったりな気分にすぎない*1。もちろん、わずかでも説得力を持たせるために、「この部分がよい」「この描写はこのような繰り返しが退屈だ」「固有名詞のイメージ喚起力によって作品が乱されることを有効に使えていない」「これはこの作品の二番煎じである」などと、例証を出すことはできるけれど。
そして、感想とはあくまでそのような気分の話なのだから、それをまじめに受け取る必要はないのだ、というか、まじめに受け取るのは正しくないことだ、と私は考えるが、正しくないからといって、そのように感想をまじめに受け取る相手がいるかもしれないことを考慮しなくてよい、ということにはならない。これは、青信号でも左右を見て渡りましょう、という話ではなく、ある文章が感想であり感想とは気分のもんだいである、としているのが私だけであるからだ。
さて、では、そういう相手を考慮すると、どうなるのか。どうすべきか。それを説明するためにまず、
小説については、もう少し足元を明確にして読もうかな
と先日述べたとおり、いままでの価値判断の足元のさらに足元を明確にしておくと、私の芸術作品評価の根本的な基準(そしてこれはおそらく多くの書評者に共通だと思われるが)は、「既存のほかの傑作を受容する時間を減らしてでもその作品を受容したい、と思わせるような作品は、よい作品である」ということになる。
その場合、「この作品は私に主としてこのような印象を想起させるが、主としてそのような印象を想起させられたい場合であれば、ほかの作品のほうがその欲求をよく満足する」と判断したなら、ある作品を「わるい」「退屈だ」、あるいは、それを判断するまでに要した時間などを考慮すれば、もっととげとげしい言葉で呼ぶことになる。ただし、「呼ぶことになる」からといって、どこでも・いつでもその作品をそのように呼ぶべきかどうかは、別の話だ。場合によっては心のうちでのみそう呼び、公的には完全に沈黙する、ということもあろう。そしてそういう沈黙は、面罵された書き手の心中をあらかじめ慮って気配りをするという点、たしかに紳士的*2で、想像力ゆたかな態度である。
ここではつまり、紳士とは、「価値のあるおれの時間を浪費させたな!」と怒っていても、その内心はおくびにも出さない、というようなひとを指すわけだ。
しかし、このブログは*3、読み手を傷つけることを目的としてもいないが、読み手を根拠なくよろこばせることを目的としてもいない。したがって、上記のような紳士的態度を徹底させるならば、感想をまじめに受け取ってよろこぶような読み手のことを想像し、ほめることをもまた控えるべきだろう。つまり、もし徹頭徹尾紳士的であろうとするならば、感想文を書くことはそもそもやめるべきだ、という態度をとらざるをえない。
さて、そのとおりです、やめなさい、という答えは、じつは内心でも説得力を持っているので、ちょっと困っちゃうんだが、しかし、Webの公的性質を考慮しても、やはり上記のような「紳士的態度」を擁護することは難しいように思われる。
なぜなら、「感想」でないことを書くことは、そもそも不可能だからだ。
これは、どのような理論的言説もしょせん感想にすぎない、という相対主義をとる、という意味ではない。そうではなく、どのような言説を唱えたとしても、ほかでなくそれを唱えることにしたという決定が、根拠づけ不可能な「感想」であるからだ。
ということは、いかなる言説についても、それを唱えたという事実のみによって、(言説の内容を問わず)よろこぶひとがおり、傷つくひとがいる、*4ということが、原理上は認められる。したがって、上記の「紳士的態度」の徹底は、いかなる言説も公開できない、という事態につながるはずである。
さて、これでは不合理だから、という理由で、「紳士的態度」は捨てるべきであり、したがっていかなる言説も公開してよい、と結論できるかというと、まだそうはならない。
まず、「紳士的態度」をどこまで徹底させるべきか、という問題がある。根拠のない「感想」でひとの感情を操作しているのだから、その操作の先がどのような感情であれその行為は「紳士的」でない、と私は考えるが、そのレベルの「紳士的」と、相手を直接に傷つけることが予想されるような行為は避けるというレベルでの「紳士的」とは、別の概念ではないか、という議論はできそうである。この議論が成功すれば、前者の「紳士的」は無視して後者の「紳士的」のみを徹底する、というしかたで、一貫性を持って「紳士的態度」を徹底することができる。
つぎに、いかなる言説についてもそれによって感情を操作されるひとがいる、という中間帰結は、あくまで原理的な話であり、そこでは、感想によって「感情を操作される」ということが常に悪であるか、という議論がすっとばされている。たとえば「本人が自らの感情的反発を押し殺すことに自発的に同意できるほど、その感想が説得力を持っていれば、感情を操作するとしても感想は悪でない」という立場がありうる。
以上の2難点は、いずれもまだ素描にすぎず、したがってこのままでは私の現在の態度を棄却するにはいたらないと思われるが、少なくとも2つめの難点*5について検討した以上、私はいまや、感想に説得力を持たせるための努力をするべきだ、ということは言える。
そういうわけで、今後の私の感想文執筆の方針がひとまず決定した。すなわち、ある事象について、説得力を持たせる努力をしたうえで感想文を書くか、もしくは、それについて感想文を書かないか、である。