あなたのkugyoを埋葬する

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ぬわぁーにが、社会的に構成されるのー、か!

ドイツ語医学用語のように、意識をつかさどる中央処理装置 - kugyoを埋葬する


 自分のエントリにトラバを打ってみるけど、手ぬるいなあ、読み返してみるに。
 ところで、いま発見したのだけど、「手ぬるい」の対義語は、「手熱い」ではなく、「手厚い」であろう。と、考えると、上のエントリ、手ぬるいというより、手薄いのである。


 社会の話を持ち出すのは非常にやっかいで、私はできれば社会とはかかわらずに生きていきたい! のだが、まあ完全に絶望というわけでもなく、私の手元にはとりあえずシステム工学があるので、社会システム論などからアプローチできる可能性がある。でもなあ、ルーマンとかはやっぱり怖いなあ。学の具体的な中身もよう知らんですしなあ。
 で、上のエントリでは、自らの属する社会に対してアタック、というときに、ではそのアタッカはどの位置にいるのか? どの位置からアタックするのか? をちゃんと考慮してない。社会の内側にいるのか、それとも社会の外部に立てると思っているのか、どちらなのかをはっきりさせていない(議論の途中でぶれまくっている)のが、「社会」というタームを出したにしてはまずすぎる点なのだね。


 社会の話をあんまりにもしたくないがために以前考えていた、もうひとつの2テクストの優劣の決定方法は、可能な一貫した読み(解釈)の個数に着目するというものだが、可能な読みの個数が多いほうがいい(つまり多様性を是とする)ってのはさらに一般的な原理に訴える必要がある(これの確認のために価値論を研究したい)し、どういう条件を満たすものが一貫した解釈と呼べるのかよくわからないし、解釈というときにはこれはもうその解釈者の属する共同体(もちろんその共同体の言語を含んでるよね)から逃れられないので、その方針は望み薄であるということにした。
 自分で小説を書くときには、まだこの基準を使うつもりではいる。これを使えば、少なくとも1つの一貫した読みを成立させなくてはならないので、推敲が可能になるのだ。純粋なテクスト論者は推敲が行えないんだよね。さらに言うと、執筆を続けることすら/続けないことすらできないんじゃないかな(なぜ、そこでテクストを中断させないのか?)。


 だれかがおれのブログに、"タイトルに反して「母」"で検索をかけたもよう。ちなみに、そのクエリでぐぐると、おれのエントリのほかは母娘どんぶりの話が出てくる。もしそれを期待してこのブログに来たのだとしたら、ごめんよ、おれには川上未映子の萌え画像集のありかを教えてあげることしかできないんだ。


http://d.hatena.ne.jp/karikura_123/20080116/1200253252


 「乳と卵」は未読である。