あなたのkugyoを埋葬する

主に読書内容の整理のためのブログです。Amazon.co.jpアソシエイト。

東京都写真美術館に舞城王太郎が来てたよ

 ガタリの『闘走機械』の帯に「元気全開!」って書いてあっておもしろかったので、機械をでっちあげてごらんにいれます。これで私も元気全開である。


 東京都写真美術館「文学の触覚」を見学してきた。
 舞城王太郎+Dividual(遠藤拓己+ドミニク・チェン+松山真也)による『タイプトレース道〜舞城王太郎之巻』については、いろいろなところで話題になってるんだろうなと思う。これは、舞城の文章がタイプされていくようすをリアルタイムに投影するインスタレーション(ここにDividualが公開した写真があります)。舞城は会期期間中『舞城小説粉吹雪』(群像 2008年 01月号 [雑誌]に載ったやつのつづき)をじっさいに書いていて、そのタイピングの様子を記録したデータが、会場に送られてくる。もちろん舞城も四六時中執筆しているわけではないから、空白期間がしょっちゅうできるわけだが、そのあいだは過去に送られてきたデータを観客が自由に再生することができるようになっている。
 送られてきたデータに含まれる、舞城が入力した文、というか文字は、上述のようにスクリーンに逐次投影されていくのだが、それと同時にその入力のもようが、スクリーンの前に置かれたキーボードとも連動している。舞城の手元のキーボードでBackspaceが入力されれば、会場のキーボードでもBackspaceキーが動き、スクリーン上の文字が1つ消える。
 そういうわけで、観客は会場のキーボードが"押されて"いくさまを見て、幻視した舞城に「やってるやってる」という視線を向けるわけだし、文章の途中で文字の並べられがいったん止まると、「悩んでるぞ」と思うわけだ。展示本体にもそういう仕掛けがしてあって、前の入力から長いインターバルを置いたのちに入力された文字は、それに比して大きいフォントで表示されていく。


 さて、上の記述で私はすでに、書いている舞城王太郎を想起させるような書きかたにだいぶはまってしまっているのだが、ここではもう数回、表と裏とをぐるぐる回ってみたいと思う。
 舞城は「姿を現さない小説家」として紹介されている(たとえば「東京都写真美術館を見よ)。しかし、会場に設置されたキーボードが動いていくさま、"押されて"いくさまを見れば、この世のどこかに舞城がそうやって執筆しているさまを思い浮かべ、現れないはずの舞城の"姿"を幻視してもふしぎはない。では、このインスタレーションは、「舞城王太郎」についての我々の扱いかたを変えて(揺らがして)しまうのだろうか。
 いま我々は「舞城王太郎」をどのように扱っているだろうか? ひとつは、あるテクスト群(『煙か土か食い物 (講談社ノベルス)』とか『SPEEDBOY! (講談社BOX)』とかね)を結びつける、ひとつの結節点としてだ。舞城王太郎が「姿を現さない小説家」であることで、我々はそうした見方をしやすくなっているとも言える。逆に言えば、姿を見せる(ただし顔写真は見せない)小説家として、たとえば西尾維新を見てみれば、西尾が「あとがき」やインタビューで語ること、自らの来歴や展望を(インタビュアの技量によってははぐらかしの連続となる*1にもせよ)語ることというのは、テクストの特権的解釈者としての作家の復権を目指す行為であろう。
 そういうわけで、「舞城王太郎」のいまひとつの扱いかたが明らかになる。舞城がことさらに「姿を現さない」ことによって、われわれは舞城の姿をいかようにも想定しうる。「舞城王太郎」のロゴ入りの小説の一人称には、パパとか女子高生とかいろいろいるので、そいつらを「ホンモノの舞城」として代入してもいいし、愛媛川十三でもいいし、ある時期には太田克史なんかも候補にあがっていただろうか。要するに、「姿を現さない」ことが、かえって我々に「ホンモノの舞城」という特権的な主体を求めさせてしまうこともありうるのだ。
 で、「文学の触覚」で我々がキーボードの上に幻視する舞城は、どんな舞城なのだろうか? 『タイプトレース道〜舞城王太郎之巻』に冠されたロゴのひとつだろうか? あるいは、福井でパソコンを前に呻吟しているおっさんだろうか?
 ここで、その幻視された舞城に「あなたは、なぜそのように書くのですか?」と問うてみよう。スクリーンに投影されたどの一節でもいいが、それについて特権的な解釈を要求してみよう。返答はあるだろうか? ない。いかなる形の返答もない。沈黙すらも返ってはこないのである。
 我々はここで、意図を持って執筆を行う特権的解釈者である「ホンモノの舞城」、あるテクスト群の結節点としての「舞城王太郎」のほかに、もうひとつの舞城を発見する。それはたんなる執筆するだけの主体、いや主体とすら呼べない「執筆機械」である。いかなる解釈をも行わず、意図をも持たない「執筆機械」としての舞城が、東京都写真美術館にいま来ているのである。そしてわれわれは、『タイプトレース道〜舞城王太郎之巻』を見ながら、たとえば『舞城小説粉吹雪』を、そうした「執筆機械」によって執筆されたものと見ることで、特権的解釈者の呪縛から放たれることができるのだ。
 この「執筆機械」は、舞城が姿を隠しつづけなければ露になることのなかったものである。たとえばこの作品が『タイプトレース道〜佐藤友哉之巻』なんかであれば、「カポーティになりたい!」なんて叫びながら自宅でぽちぽちキーボード叩いてる雰囲気イケメンが、要するに具体的な肉体が、意図を持った脳が想起されてしまうはずだったのだ(西尾維新でも同じこと)。あるいは、会場に設置されているのがキーボードだけでなく舞城を模した舞城・ロボとキーボードとであったとしたら、我々はやはりそこに舞城・ロボの意図を見てしまう。じっさいには「ホンモノの舞城」-「執筆機械」-「舞城王太郎」という構造はどの作家にも見出せるのだけど、それを舞城王太郎とキーボードというミニマムな2つの道具を使ってはっきりと示したことが、『タイプトレース道〜舞城王太郎之巻』のよさであり、汲み出せる"美"であるといえよう。