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『講座 美学 (3)』を読んでいる。あー、美学もちゃんと仕事してるじゃないの。みんなも美学の食わずぎらいはよくないよ! 美的なるものの理論から批評の哲学へ移行すべきだそうだから(G.Dickieによれば)。
自分でいちから考えないといけない、と思うと、芸術評価の学なんてハードすぎてやってられないけど、少なくとも1984年の段階で分析美学はここまで仕事をしていたということがわかったので、だいぶ安心した。
それにしても、例えば
ウェイツの議論は次の四段からなる。
(一) 今までの芸術の定義が「芸術とは何か」という問いに答えようとする実在的定義であったことに着目・批判し、「芸術の概念とは何か」という問いに視点を移すべきであるとし、
(二) 芸術という概念の分析からそれが「開いた概念」であること、即ち実在的定義の不可能なものであることを示し、
(三) 芸術の定義が記述的であるだけでなく評価的であり、価値的な問題が常に混在していることを明らかにし、
(四) このような価値相関的な定義の在り方を否定的にではなく肯定的に捉えようとする。
(『講座 美学 (3)』p.121)
なんて文章を読んでいると、問いの立て方や目標の設定のしかたってのはだいじよねえ、と、にやにやさせられる。
分析美学のほか、実験美学などにも触れてある。これは客観的計測から美的経験を刺激への反応として読み取ろうという試みである。このように、私の思いつくようなことはすでにだれかが実践ずみであるので、私は安心して学の発展に寄与することができる。
もう少し書く(この段落以降は小さな文字で書いてあると思っていただきたい)。私の思いつくようなことはすでにだれかが思いついているということは、私の書くようなことはすでにだれかが書いているということだ(かかれていなければ、思いつかれていたことを私は知りえないだろう)。すると、同じことに対して少なくとも2とおりの書きかたがあることになる。これは確実に言えることではないが、そのように複数の選択肢があれば、どちらかはどちらかよりよい選択肢である可能性が強い。
私は自分の書く文章があまり気に入らないので、このように先行者が私の考えたことを書いてくれているという事態を発見すると、非常に安心する。多くの場合、私より頭のいいやつが私のかわりに考えてくれるわけで、たいへんなアウトソーシングだ。これを組織化したものが、いわゆるシンクタンクである、と、むかし思っていた。