あなたのkugyoを埋葬する

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『1000の小説とバックベアード』批評 〜読んでるおまえは「僕」じゃねえ! 

 「片説家」は、小説家と違って個人のための物語を書く集団。その片説家をクビになった僕のもとに、女性が現れる。彼女は、失踪した彼女の妹のために書かれた「片説」の入手と、僕に「小説」を書くことを依頼してきた。

 こんな感じの設定からはじまる、佐藤友哉1000の小説とバックベアード』(新潮社、2007)を、書き手と書かれた小説との乖離という問題を通じてながめてみよう。


 「片説家」である「僕」は、書き手と書かれた小説との乖離を認めない。それはたとえば以下のような一節に現れる。

なぜなら、小説を書くような心で書いたら……それはもう、小説なのだから。(p.127)
僕の文章に『思想』や『信念』や『動機』や『主張』があるようで気持ち良かったのだ。(p.138)

 「僕の文章」のような言い回しもそうだし、その文章になにがあるか、なんであるかは、書き手である「僕」の「心」によって決まる、ということが言われている。あるいは以下のような一節。

あのときと同じだ。図書館に連行された日に、オールデンの革靴が僕を痛めつけるために使用したのとまったく同じ『言語』だ。だから苦痛の感想も一緒で、『それは激痛という表現で片づけるにはあまりに強烈だった。有刺鉄線を巻かれたムカデが血管内を走り回っているような痛みとでもいうべきか』という状態になった。(p.180)

ここで『言語』とは、p.146にもあるように、長い文章を短く圧縮した言葉なのだが、「僕」は同じ『言語』からは同じ感想を受け取る。ひとつの小説にはひとつの感想が対応すると捉えている。だからp.136にあるように、「僕」にとって誤読は許せないものなのだ。
 さて、こういう「僕」が、書き手のわからない小説を読んだらどうなるか。『1000の小説とバックベアード』に書き手不在(不明)のテクストは2つ登場する。
 1つめは、「配川ゆかり」の失踪した妹、「配川つたえ」が残した、「ティエン・トゥ・バット」社産の片説『うしなわれたものがたり』の断片だ。「配川ゆかり」にその断片を渡された当初、「僕」はそれを読むことができなくなっていたのだが、友人の「一ノ瀬さん」にそれを読み上げてもらったのを聞いて、「僕」はこう述べる。

「別に、どうということもない文章でしたね。少なくとも僕とは無関係だ」
 たとえば長い時間をかけて小説を読み終えたのに、何一つ感想が浮かびあがらないことがある。それは決して小説が悪いわけではなくて、その小説と自分とが、まったくの無関係だからという理由もある。今回などまさにそれだ。(p.45)

いっぽう探偵である「一ノ瀬さん」は、『うしなわれたものがたり』の断片から、その引用元を(他の探偵の助けを借りて)発見し、それをもとに『うしなわれたものがたり』の著者をあぶりだす。「僕」にとって、作者と乖離したテクストは単に読み解けないものなのだが、「一ノ瀬さん」はテクストのなかに作者の意図を離れたものを見出している。
 2つめの書き手不在のテクストは、もっと広く捉えて起源不明の痕跡とでも言うべきものだが、「配川つたえ」本人である。「配川つたえ」は物語終盤で「僕」の前に姿を現すが、彼女は自分ではしゃべらず、ハンドバッグのなかのカセットテープによって会話をする。とうぜんながら、それは、事前に吹き込んだ音声を再生している、ということであり、事前に音声を吹き込んだその時点での「配川つたえ」は、いま「僕」の前に現れている「配川つたえ」とは、厳密に言えば異なっている。さらに、事前に音声を吹き込んだのが「配川つたえ」であるという保証はない(p.82「あれが配川つたえだという保証はどこにもない」)のだから、届けられた「配川つたえ」の肉体とそれが持つカセットテープとも、やはり作者不明のテクストである、ということになる。ひょっとしたら「配川つたえ」は、不在の作者と配達されたテクストとのあいだにのみ浮かび上がる「幽霊」(p.73)なのかもしれない。そういうわけで、「僕」は「配川つたえ」を見て、「この存在からは、何一つ情報を獲得できないということ」(p.216)に「気づく」のである。
 ちなみに、『1000の小説とバックベアード』に登場するほかの小説(手紙)は、どれもその作者がはっきりしている。この傾向はエピグラフにも明らかだろう。

 ヴァレリイを読めば、ヴァレリイ。モンテーニュを読めば、モンテーニュパスカルを読めば、パスカル。自殺の許可は、完全に幸福な人にのみ与えられるってさ。これもヴァレリイ。(p.6)

 ここでは、モンテーニュの著作(たとえば『エセー』)が、そのタイトルではなく作者の名をもって呼ばれている。作者と著作とが緊密に結び付けられているのだ。
 その他、バックベアードからの警告文(p.49)には、「バックベアード」と署名がされている。またp.247で羅列される近代日本文学作品からの各種引用については、pp.9〜10の題名の羅列と比べれば作者の名前がなんであるかはわかりづらい。ただし、p.247のほうでは、それを書いた「死んだ小説家たち」(p.245)が、「僕」の目の前の海を泳いでいるのだから、ここでもやはり、書かれた小説と書き手とが同時に現れているという意味で、作者は明らかなのである。
 ただ2つだけ登場する作者不在のテクストに対し、「僕」が"読めない"という特殊な態度をとっていることが、こうした記述から際立ってくるわけだ。


 『1000の小説とバックベアード』では、「僕」はなんとしても読み手ではなく書き手の側にいつづけようとする。これは京王プラザホテルの地下図書館で「僕」が小説を読まないことに端的に現れている(p.152, p.176)。そして、「僕」は書いた小説が書き手の意図を離れて読まれることをきらい、読者を「つつむように」(p.184)考えて書けば、すなわち読者に書き手の想定外の反応をされないように包囲して書けば、読者に書き手の意図がそのまま伝わると信じている。
 しかし、いくら「僕」が「間違った文脈を読むやつはゆるせな」いと息巻いても(p.136)、じじつ読者の好きなように"誤"読されてしまったという事実はもはや変えようがない。『言語』は受け手の反応を強制する作用を持つ(p.76)から、一見誤読の余地を排除しているように見えるが、その『言語』でさえも、「一ノ瀬さん」には「配川つたえは滑舌がいい」(p.82)といった読みをされてしまう。
 そういうわけで「僕」の誤読排除は挫折しつづけるのだが、『1000の小説とバックベアード』中にただ1種類だけ、誤読の余地が存在しない痕跡がある。それは、「オールデンの革靴」が使う『言語』だ。「ふぃ■おろ■■■ざが■い■■」のような、「無理に日本語に変換した場合、どうやっても発音できない言葉がいくつか残る、不可解かつ不安定な」(pp.141-142)もの。
 この『言語』は、誤読の余地どころか、そもそもいかなる読みも許容しない。なぜならそれは、解釈者の持つコードとまったく一致点がないために、そもそも解釈することができないからだ。「配川つたえ」から送られてきたらしきDVDは、それが意味のある映像であるという点で、『言語』を含んでいるにしても、別様の解釈を引き出すことができた。しかし、「オールデンの革靴」が使う『言語』には、解釈の余地が存在しないため、『言語』によって引き出される「自動的かつ機械的な心身の変化」(p.142)が、ありうる唯一の解釈となってしまうのである。ここでは送り手の意図がダイレクトに受け手に届くことになる。
 誤読を排除したい「僕」にとっては理想的な『言語』を自身も利用して、「僕」は地下図書館から脱出する。しかし、地下図書館では誤読は起こらなかったけれども、『言語』を実際に使える「少女」と別れた「僕」は、やはり誤読の可能性に直面し(p.189「僕はやみじゃない」「どうだか」)、自信を失う。
 しかし、「僕」はその後、「配川つたえ」のテープからの言葉を聞いて、次のような反応をする。

『それがあなたの使命かもしれない。それがあなたの役割かもしれない』
 僕の役割?
 どうしたのだろう。その言葉を耳にした瞬間、きわめて若々しい感覚が曲がった背骨を伸ばして、全身を健康的に発熱させた。何もしていないのに充実した気分になり、充満していた疲労が消し飛んだ。
 やる気が、出た。(p.222)

 「その言葉を耳にした瞬間」、理由もなく「心身の変化」が起こっている。これを例の『言語』の作用と見ることはたやすい。「オールデンの革靴」が使う『言語』は「不可解かつ不安定な」ものだったが、「配川つたえ」はDVDに見られるように、一見べつの意味があるような『言語』を使って、受け手に強制的な反応をもたらすことができるのだった。
 まとめよう。誤読をきらう「僕」は、さまざまな誤読にさらされ挫折するなかで、ぜったいに誤読されない『言語』と出会う。しかし「小説家」でありたいがゆえに、「オールデンの革靴」の使うナンセンスな『言語』をつむいでいく道は選べなかった「僕」は、「配川つたえ」の使う『言語』を受け入れ、表層的な部分に隠された唯一の真の解釈がある、という読みのしかたを受け入れるのである。
 このようにして、「僕」は多幸感のなかで『1000の小説とバックベアード』の結末を迎えるのだが、「僕」が「バックベアード」の「浄水場」にある「フィルター」を通過できなかったことを見逃してはならない。フィルタは不純物を取り除くものだ。「僕」という主体、書き手は、この「フィルター」を通過できなかった。つまり、「僕」の意図、書き手が意図した唯一の真の解釈というものは、この「フィルター」にとって不純物なのだ。

雨となって地上に還ってきた小説家は誰にも受けとめられず、そのまま海や川へと流れて行きます。まあ当然でしょう、昔の小説なんて誰も読みませんからね。誰も読まないから、思いばかりが蓄積され、混沌と化す。(p.243)

 ここでは「思い」つまり書き手の意図は、フィルターに引っかかって循環できずに「蓄積」される。「思い」がないまま循環している「小説家」とは、つまり小説家の名前であり、いくつかのテクストを束ねる結節点としての記号であろう。
 ここからわかるのは、「フィルター」を抜け、時代を越えて循環ができるのは(「フィルター」とは時代の変遷だ)、隠された真の解釈などではなく、表層的な部分に他ならない、ということだ。「僕」は『言語』によって与えられたかりそめの多幸感のなかで、自身の放流した小説にこめた"真の意味"が濾過されてしまい、将来かならず誤読にさらされてしまうことに気づいていない。


 このようにして、『1000の小説とバックベアード』は、「小説」の特権的専制君主であろうとする「僕」の試みが最後まで挫折し、自由な読み=誤読の可能性が残りつづける、という物語としてまとめられよう。しかし、こうした結論を引き出すためには、『1000の小説とバックベアード』という小説自体を、「読みはつねに自由だ」という信念のもと、積極的に読んでいくしかなかった。そうでなければ、読者もまた『1000の小説とバックベアード』によって強制的に多幸感を与えられて本を閉じることになる*1
 「読みはつねに自由だ」と考えるこの読みは、与えられた意味だけを受け取る読みかたを否定することはない。幸福に本を閉じるような読みかたもまた、自由な読みのひとつだからだ。じっさい、『1000の小説とバックベアード』は、そのまま読めばなぜかやる気が出る、というぐらいには、ドラマツルギーを保持している。
 けれども、時間をかけて読みの可能性を引き出していくこうした読みかたは、唯一の意味を強いるもの、すなわちすべての権力に対する、積極的な読み替えへと成長させることができる。放流された「小説」「法律」「規則」といったものに意味を与えるのは、送り手ではなく受け手である。権力は反発されればされるほどその力を強めることになるが、与えられたものに反発するのではなく、受け手に都合のよいように読み替えることで、その全面的な効力を失効させることができるはずだ。

*1:ところで、こういう読みをする読み手は多いが、こうした読みは、一人称に感情移入したすえ、本来けっきょくは他者であるはずの語り手との同一化をはたしえた、という錯覚にはまってしまっている。