あなたのkugyoを埋葬する

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『小説の設計図』はトンデモ本じゃないから注意!

文学は飢えてる子を救うよ。

 最近、文学の存在意義について話す機会があって、そこではまず、現状で大学の学としてとりあえず成り立ってしまっている文学と、それとはとりあえず無関係に成り立つ文学の研究と、そして文学の研究対象となっている文学作品とを峻別しましょうね、という議論になった。
 で、いま用語としてなんか付けるのであれば、文学学と文学批評と文学作品と、って感じかしら。で、文学作品については娯楽として価値があることはわかるし、そもそも娯楽としてでいいのだったら3つのどれでも価値はあることになるけど、そうでない価値が文学学や文学批評にあるのか? ないのか? って話をした。このうち、現状の文学学については、私も必ずしも満足していなくて、とはいえそれは大学での学問一般に言えることかもしれない(学生のぬるさとかね)のでとりあえずおいて、私が再三主張している文学批評の価値を、ここでは話題にしよう。
 文学批評とは読み替えの技術の粋の集まりであって、その読み替えこそ社会的に望まれている(ニーズとは限らない、シーズね)ものだよ、って私はつねづね主張しているんだけど、そういう読み替えだったら個々人がすでにやってるんじゃない? というのが、私に対するそのときの反論だった。具体例は私にはピンとこなかったけど、たとえば女性誌には、「合コンの雰囲気を読み替えて自分に有利なように話を運ぶぜ!」みたいなのが載ってるだろう(男性誌にももっと載せてください)。
 押し付けられる物語を読み替えるっていうのは、たしかに、個人の内面で見れば現に行われてることだろう。さらに、個人の内面レベルで読み替えが成功すればいいんであれば、それは物語の押し付けられを追認することにしかならない。
 しかし、そうした読み替えを個人の外へ向けて提示し、なにかの代替物として成立させるためには、文学批評が培ってきたような技術が必要だ。なぜなら、受け入れ可能なものとして他者にその読み替えを提示するには、たとえば論理性などの担保が必要で、それは現に個人が行っている防衛機制よりずっと高い精妙さが要求されるだろうからね。
 で、なぜそういう代替物を他者に向けて提示しなくてはならないかといえば、ひとつには自力での読み替えに困っているひとの助けになるかもしれないからだし、さらに積極的な意義としては、そうした読み替えの連続が、権力の権威を内側から掘り崩すことになるから、というのがある。
 そしてそのときには、さっきあげた「論理性などの担保」にも、やはり権威があることに注意しなくてはならない。そこからは「非論理的に考えることなどできるのだろうか」(=論理性に権威なんてあるのだろうか)という問題が浮き上がってくる。もう少し広げて言うと、我々の知ってる論理と算術とが成り立たない可能世界なんてあるのか、という問題でもある(D・ルイスはもちろんないよ派だが、三浦俊彦は最近まであるかも派だったと思う)。やべ、話を全可能世界にまで広げてしまった……。


 うーん、こんな話は、特に私が言う必要もないな。当該学問分野の知見に基づかないことなんて、どうせみんな考えついているに違いないからね。

長くなったなあ。

 というわけで、そんな読み替えの楽しさをみんなに知らしめたいときにオススメな本を、買いましたよ。


 最近買った本のリスト。

小説の設計図(メカニクス)

小説の設計図(メカニクス)

文学界 2008年 04月号 [雑誌]

文学界 2008年 04月号 [雑誌]


 最近借りた本のリスト。

知っ得 幻想文学の手帖

知っ得 幻想文学の手帖


 『小説の設計図(メカニクス)』は、おおむね2つの意識に貫かれているといえよう。ひとつめは、我々がふつう小説を物語としてどう読んでしまうかを掘り出し、それをじつは裏切っている小説のずるがしこさをも明らかにすること。そしてもうひとつは、書いたそばから書き手の意図を裏切りつづけるテクストというものの、これ(『小説の設計図』)自体が一例であることの強調だ。ひとつめの意識はふたつめの意識にだんだん覆われていき、p233で中原昌也の『点滅……』を論じたときには

小説を読む/書くとは、そうした不断の点滅に耐えることであり、その持続こそが「……」の余韻に籠められているのだなどと言えば、それもまた打ち消さなくてはならぬだろうか。

といったような、「とりあえず成り立って見える」(表紙)ロジックによる結論へ至ってしまうことをいやがる身振りが現れている。
 いやでも、この本を最初から読んでいったひとにはわかるだろうけど、この「とりあえず成り立って見える」ロジックがー、唯一無二の正当な読みなんかではぜんぜんなくってー、どうしようもない強弁なんですよー、という身振りは、じつは最初からしてあったのだ。たとえばp.45の、

 ツキコとセンセイを分子と分母に置いて、それぞれをローマ字(Tsukiko/Sensei)と英語(Moon-girl/Teacher)表記した際の頭文字で略記するならば、「センセイぶんのツキコ」は、「T×M/S×T」となる。双方をTで訳せばM/Sとなることも、もはやなんら意外ではない。

という、これだけ読んだらリューーーーーースイ! な読みこそは、もっともらしく見えてしまう精緻な読解をぶちこわしにするために、前田塁があえて悪ノリをした部分だったのではないだろうか。
 もちろん、その悪ノリは、

なにしろ「DOG」なる言葉は、紛れもなく「GOD」と同じパーツでできているのだ。
(p.181)

のように、『犬身』の読みにだって侵入してくる。もう、まさに紛れもなくリューーーーーースイ! である。ただし、最後に扱った『キャラクターズ』では、そもそも『キャクターズ』中で
「破壊衝動も「アサヒ・コムのロゴは、aよりも中心のiを強調している」から「虚数のa、iaだ」といういかにもこじつけ風な標的」(p.223)
が扱われてしまっているため、こうした悪ノリこそが正統的読解となってしまいかねない。だから『キャラクターズ』を扱ったあとでは、上にあげたように、いささか鼻につくほどのしつこさで、

同様に私(たち)に課されるのは、言葉をひとたび燃やしてその灰のなかに立ち尽くすことであり、そこから書きはじめることである。むろんこの拙い手紙などは、真っ先に燃やされなければならない。
(p.230)

なんて書かざるをえなかったわけだ。


 というわけで、そんなむちゃくちゃな語呂合わせでもしておかないとあっという間に唯一無二の正答になってしまいそうなほど説得力ある読みを体験したいかたは、ぜひお読みください。
 なーんて珍しく推薦すると、「学閥が!」とか言われちゃうかもしれない。その瞬間そこに学閥が形成されるわけで、そこからなにか新しいものも生まれるかもしれないね。いまライトノベル界隈では新月お茶の会にまつわる東大学閥陰謀論(笑)が出ているしね。別のT大もにぎやかだし。