あなたのkugyoを埋葬する

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虚構キャラクタの人権

 虚構キャラクタにも人権を認めると、みたいな話はよくある。少なくない虚構作品がそういう話を出してきた。新しいところだと、諏訪哲史「りすん」なども、そういう読みかたの容易な小説だ。
 これに対して、当然、「虚構キャラクタの人権を私たちが認めてあげても、虚構キャラクタが私たちの人権を認めてくれることはない(もしあったとしても私たちにはわからない)」、とか、「虚構キャラクタは、原理的に、自身の権利が侵害されたとは申し立てられない」、とか、コミュニケーションの問題を考えて、だから虚構キャラクタには人権を認めない、彼らに対する責任はない、とする議論があるだろう。
 ここでちょっと待ってほしいのだが、まず、虚構キャラクタと我々は、コミュニケーションしてしまう可能性がある。いちばんわかりやすいのは人工無能だろう。人工無能が、「さっきはひどいこと言ってごめんね、お詫びになぐさめてあげるから許してね」なんて言い出したらどうなるのか(私たちの権利を認めた場合)。あるいは、「セクハラ!」とか(自身の権利の侵害を申したてた場合)。
 ま、それは、コミュニケーションと擬似コミュニケーションとの違いをはっきりさせなくちゃいけないから、とりあえずおいておこう(チューリング・テストはからんできません)。もう一つ、こんどはもっと現実的なことなのだが、私たちは、「私たちの権利を認めてくれない」し「自身の権利が侵害されたと申し立てない」ようなひとに対して、責任をじっさいにとっていることを指摘できると思う。それは死者に対してである。
 もちろん、死者への賠償金、という話は、ここでは的外れである。だってその賠償金は、死者ではなく遺族に、遺族のさまざまなこと(精神的苦痛とか金銭的不利益とか)を保障するために支払われるのだから。そうではなくて、我々は、死なせてしまった者に対し、たとえば墓参りをすることで、かれを死なせてしまった責任の一部を果たしていると考える、ということを、ここでは指摘したい。
 墓参りは、まあ、遺族に対するパフォーマンスとしてとらえることもできるけど、とりあえず、死なせてしまった者にほんとうにすまないと思って墓参りすることもあること、これは事実だろう。ところで、死者はもはや我々とコミュニケートできないのだから、その意味では虚構キャラクタといっしょである。つまり、我々はじじつ、虚構キャラクタとほとんど変わらないものに責任を負うことが、つまり権利を認めることがあるのではないだろうか。


 うーん、柄谷行人あたりでも言ってそうな話だ。死者を持ち出したあたりがまずかったな、戦争責任論でさんざんやりつくされていることであろうな。またしても当該学問分野の知見に基づかぬことをさかしげに書いてしまった。


 ヤスパースの「形而上の罪」という言葉を、いまおふろで読んだ論文「責任論 自由な社会の倫理的根拠として(大澤真幸, 「論座」2000.1)」で思い出したんだけど、以下はそこから思いついた話。
 我々は、我々が現実世界に存在するけれども、虚構キャラクタは存在しないという、そのことに罪悪感を覚え、虚構キャラクタになんらかの意味で責任をとるべきなのではないだろうか。
 そして、可能世界論を虚構に応用して考えれば、虚構キャラクタは自らの存在する世界を自らにとっての現実世界だと捉えているのだから、我々に対して、「おれたちはおれたちの現実世界に存在するけどあいつらはおれたちの現実世界には存在しない!」と言って、同様に罪悪感を覚えるわけで、これは平等であるといえよう。