あなたのkugyoを埋葬する

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心の科学基礎論研究会に行ってきた

それでは! デュエム開始!
くわーっ


http://green.ap.teacup.com/miurat/1484.html


 29日に明治大学で開かれていた、人文死生学研究会・心の科学基礎論研究会 合同研究会に出席してきた。出席者は20名ほど。研究者ばかりかと思っていたけど、在野の方々もたくさんいらしたみたい。島根? から三浦俊彦目当てに飛行機でやってきた方まで。

一人称的実験心理学としてのフィールドワーク

 明治大学蛭川立先生による発表。精神が肉体の死後も存続する可能性を検証しようとしても、それはESP/PKを検証したことにしかならない、という話が印象深い。たとえば、前世の記憶の裏づけが取れたとしても、それは死者から子供へテレパシーかなにかが伝わったことの証明にしかならない、というわけだ。たしかに、意識が肉体から肉体へなんの物理的媒介もなしに存続する、というよりは、テレパシーのほうがまだしも信じやすい。意識の死後存続の証明にはより強い証拠が必要そうだ。というか、このままだと、意識の死後存続は主観的な(一人称的な)問題なので、客観的な(三人称的な)証拠を揃えてもそれはテレパシーの証明にしかならないのではないか。
 そこで、これは検討でも出ていた話だけど、意識の死後存続とテレパシーとを区別するには、情報量で定義してしまうのがよいだろう。つまり、前世の意識がそのまま引き継がれており、ほかの意識が併存していない、という場合のみを、意識の死後存続と認めるのだ。
 また、これはいま思いついたのだが、たぶん、テレパシーが行われるには受け手に意識があることが必要だろう(たとえ眠っているあいだにテレパシーを受けるにせよ、情報を受け取った、という感覚があるはず)。そうすると、意識を持つまえの胎児には、テレパシーは通じないから、意識の引き継がれが起こったのだ、と言える。


 心霊研究(psychical research)や超心理学(parapsychology)だって、なにが観測されたら仮説が証明されたことになるか、を決めておくことや、センスのよい実験を考案することはだいじだ。今回センスがよいなと思ったのは、物理的な観測にひっかからないものを、2人並べて臨死体験させることで観測させる、というもの。
 ちなみに、多くの研究者は、超心理的能力も未発見だがやはり物理的なもの、としてとらえているらしい。そうでなければ、物理的にたいへんなことをやるのは超心理的能力でもやはりたいへん、ということに説明がつけづらいだろう。

シャーマニズム、死、沖縄、平和学

 東邦大学の佐藤壮広先生による発表。沖縄の民間巫者・ユタの事例を紹介し、生と死との次元を媒介する儀礼が平和学の文脈でどのように位置づけ可能なのかを考えていた。
 佐藤先生はたとえば教育の場にユタを呼ぶことを考えているようだが、ところで、もし指導したい道徳観念(たとえば戦争の悲惨さ?)があるのなら、それは道徳的だから指導したいはずなのであって、ユタがそう言っているから指導したいのではないはずだ。だってもしそうだとすれば、ユタがいなかったら戦争の悲惨さを教えなくていいのか、ということになってしまうから。さてだとすれば、ユタの話はあくまでおはなしであって、道徳観念を受け入れやすくするためのツールでしかないはずだ。
 もう少し詳しく。出席者のひとり(まあ、ぶっちゃけると、三浦俊彦先生)が、死者の尊厳を尊重しすぎたために道徳的でない結果に陥った日中戦争の例をあげていらしたが、その日中戦争の例では、死んでいった英霊に申しわけが立たないと言って停戦しなかった帝国軍の人間こそ、沖縄で戦死者の痛みを伝えるユタと同等の位置にいる。戦死者にどのような意味づけをするかが異なっているだけだ。ここにユタを特別視する理由はないだろう。あるいは、ユタが「亡くなったひとたちが、鬼畜米英に復讐せよ、戦争を再開せよと叫んでいる!」と言い出したらどうするのか。


 ユタが自然宗教的、あるいはアニミズム的であるという発表に対し、じっさいの祈りの趣旨の抜粋を見て、これはそうではなくシンクレティズム(syncretism)的なのではないか、という指摘があった。それはそのとおりだと思う。まあ、シンクレティズムの、融合・混交といった特徴は、日本の宗教にはよくある話ではあるが。もちろん、沖縄の民間巫者といってもいろいろいる、ということでもある。

三浦俊彦著『多宇宙と輪廻転生―人間原理のパラドクス』・要旨と感想

 重久俊夫さんによる発表。要旨のまとめかたは見習いたいものだ。欲を言えば該当部分のページをふっていただけるとよかったと思う。
 いくつかの重要な批判があった。

SSAかSSSAか

 SSA(Self-Sampling Assumptionの略で、「私」は意識主体の中のだれかである、という立場)を三浦がとりながら、SSSA(「私」は瞬間ごとの意識の時間切片のうちのどれかである)をとらない理由として、たとえば同一時間に会話している2つの人格は別の人格であるとしておきたいから、などをあげているけれども、これは時間(前後関係)を過度に実体視しているのでは? というのがひとつめ。しかし、この点は、時間を実体視した議論を立てたあとで(これが『多宇宙と〜』)、たとえば相対性理論に基づく時間(特に"同時")を考えてみればいいことだろう。
 ところで、SSAよりSSSAをとるべき理由は別にある。もし、

  • 同時代に別個の場所に生活し別個の心的経験と記憶を有する心身どうしは、別個の人格と見なす。
  • まだ生まれていない人格、これから生まれていない人格、というものはなく、史上最初の自意識が生まれた時点で、すべての「私」はその自意識として生まれていた(生まれない私、というのは不合理だから)。

とすると、不合理なことが起こるからだ。
 ある心身(「私」)が他のすべての知的生命を全滅させ、しかるのちにクローン技術などで知的生命を作ったとする。さて、人格があるていどの複雑な構造(知的生命の宿りうる、たとえば脳)を離れて存在することはないのだから、「私」によるジェノサイドが完了した時点で、「私」に宿っていた以外の人格は消滅するはずである。ここにはまだ不合理はない。しかし、その後に新たな知的生命が生まれると、そこに宿る新たな人格はどこから来たのかがわからなくなってしまう。
 SSSAをとれば、この不合理はなくなる。ある心身に宿っている人格は瞬間ごとに変わってよいので、ジェノサイドの瞬間、殺された人格は殺戮者に乗り移(って消滅を免れ)る、と考えればよい(あたかも憑依のようだ)。
 あと、研究会では言わなかったけど、SSAをとっても、不合理を回避する方法はある。つまり、ジェノサイド後はもう知的生命は生まれない、ということがわかればよいのだ。*1これはSSAの経験的証明として使えるかもしれない。
 ま、じつは、やっぱりSSAはだめなんだけどね。つまり、あるひとが死んだ直後に胎児が誕生した(あるいは、自意識が生まれた)、ということが起こらなかった場合が1回でも発見されれば、SSAは経験的に反証されてしまう。
 ちなみに、三浦先生の意見としては、SSSAを採用しながら、プラグマティックにはSSAで考えればよいのでは、ということだった。

様相実在論者VS三浦俊彦

 んで、様相実在論者・俺、参上! - kugyoを埋葬するであげたおれの疑問であるが、これをじっさいにきいてみた。やはりこれは問題点っぽい。考えてみますって言ってらした。論理的な可能性をぜんぶチェックして濃度の話に持ち込めればうまくいくかもしれないという見込みを三浦先生は持っているようだが、やっぱりそれはむりじゃないかな。しかし、これで様相実在論をとれるかというとそうでもなく、実在する可能世界の個数はいったいどういうレベルで無限個なのか、ということが解決できないと、様相実在論も共倒れになりそう、という感触は持った。この弱点は『可能世界の哲学 「存在」と「自己」を考える (NHKブックス)』でも論じられていましたね。
 ちなみに、似た構造だが三浦先生の論証で問題ないものもある。これは今回、重久さんから提示されたふたつめの疑問点だった。ちょっと配布レジュメから引用しようか。

 観測選択効果による多宇宙論証が成り立つのは、(略)P(E|S)≒0が成り立つ場合である。
(略)
 P(E|S)は、「ただ一つの宇宙がファインチューニングされている確率」である。三浦論文はこれを“ほぼ0(=奇蹟的)”だと考えるわけだが、この点を再検討してみたい。
(略)
P(E|S)=〔ファイン・チューニングされている可能宇宙の数〕/〔全ての可能宇宙の数〕
(略)
 そうすると、右辺の分母(=全ての可能宇宙の数)は当然無限である。分子はどうだろうか。ある物理定数C1の変域が0から1まであるとして、ファイン・チューニングされているといえる範囲はその中のごく小領域である。しかし、どんなに幅が狭くても、少しでも幅がある以上、その幅の中をまた無限分割することができる。

 というわけで、やっぱり分子と分母とが無限になっちゃうんじゃねーの? という反論なのである。しかし、これは、三浦先生が再反論を成功させていたように思う。つまり、物理定数C1の変域が有限であれば、その中の有限区間に当たる確率は、0以上1以下の有限の値におさまる。たしかに、どの区間内にも無限個の点があるが、それは問題にはならない、というわけだ。というわけで、話はベルトランのパラドクスに落ち着く(このへんとかどーぞ)。つまり、宇宙をランダムに選ぶ、というときのランダムってどういう選び方? ってのが決まってなかったために問題が起きているのだ。さて、ベルトランのパラドクスに落ち着いたということは、"ランダム"ということさえ定義してしまえば、確率は0以上1以下のいずれかの値にはなるということになる。そういうわけで、確率が定義できないということにはならないはずだ。
 ……や、んー、しかし、P(E|S)≒0を証明するには、やはりベルトランのパラドクスを解決しないといけないのでは。いや、じつはwikipediaを詳しく読むと、ベルトランのパラドクスって解決されてるっぽい? 変換群を用いた常識的解決……んん、変換群を用いても確率分布が変化しないような方法にすべきって書いてあるのか? わからん。だれか知り合いの数学科の連中を捕まえておこう。
 ちなみに、この三浦の再反論が成功したとしても、様相実在論者からの反論には使えない理由は、物理定数C1の変域が有限である(メタ・統一理論に規定されている、この点も重久反論は見落としている)のに対し、可能世界の個数はほんとうに論理的な可能性の数だけあるので無限(非可算無限?)であるから、である。

長くなっちゃった

 学部学生特権で懇親会の料金を半額にしてもらった。どうもありがとうございました。
 あ、三浦センセのご著書にサインもらってくんの忘れた。

*1:これはセカイ系っぽくてかっこいい。つまり、主人公が恋人を残して全知的生命を虐殺すると、生き残った2人は何回ヤっても何回ヤっても新たな自我生まれ〜ないよ〜、という話だからだ。