あなたのkugyoを埋葬する

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逆ギャンブラの誤謬

 最近買った本のリスト。

TITLe (タイトル) 2008年 02月号 [雑誌]

TITLe (タイトル) 2008年 02月号 [雑誌]

おかしな道具のカタログ (1977年) (パルコピクチャーバックス)

おかしな道具のカタログ (1977年) (パルコピクチャーバックス)

 どちらも、目白の銭湯でやっていた古本市にて。


 『偶然の宇宙 (双書現代の哲学)』を読んだ。全体的に議論の運びが、枚数稼ぎかと思われるほど遅い。そのくせ肝心なところはすぐ済ます。ま、こう見えるのは、著者の伊藤がゆっくり運ぶべきだと考えている部分と、私が肝心だと思っている部分がずれているからであろう。たとえば、パスカルやヒュームがじっさいには何に気づいていたのか、を検証することは、私の関心をほとんどひかない。
 で、この本の「第II部 宇宙のアンサンブルと奇跡的微調整」について、けっこうむちゃくちゃなことを言っているように読めたので、これに対して意見を述べている論文がすでに存在するに違いないと思い、検索したらやはりちゃんと出てきた。ほかにもいくつか見つかったけど、全体的にこの部分への評価は芳しくないようであるな。
http://wwwsoc.nii.ac.jp/pssj/program/program_data/37/37ws/Kashiwabata-Fish.pdf


 が、しかし、この柏端の論文も、途中まではいいが「4.永遠の謎」では議論がいいかげんであるようだ。つまり、

  • われわれが、ほかならぬこの宇宙の、観測者である
  • 私が、宝くじのほかならぬ一等に、当選した

を類比的に論じて、前者にも後者にも説明すべき謎はないよね、と彼は言っているわけだが、後者では私と一等とは独立に指定できるのに対して、前者はそうではない。この宇宙の観測者でないようなわれわれってのはいないのである(「この宇宙」という言葉の用いられかたに注意)。
 ん、とかいうような議論も、三浦俊彦ホームページの掲示板でされていたなあ。とほほ。徒労感である。


 あのね、つまり、私は自分の哲学的センスとか論理的思考能力とかに信頼をおけないので、いま私が三浦俊彦の議論にたいていの場合説得されているのは、三浦の議論が論理的に妥当だからなのか、私が三浦に萌えてるからなのか、はっきり区別できないわけ。こういう場合、三浦以外の論者が三浦の議論を(できれば批判的に)検討してくれていれば、三浦の議論の妥当性がより強く検証されることになるのだけど、その三浦以外の論者でまともなやつがなかなか見つからないんだよね。しっかりしていただきたい。
 まあ、先日、三浦の議論の難点を指摘することができたので、三浦萌え仮説の信憑性は少し下がったのだけど。


 体調が優れないのだが、気を取り直して『人間的な合理性の哲学―パスカルから現代まで』も読んでみよう。