あなたのkugyoを埋葬する

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はてなキーワードはヤスパースとパースとを見分けられるか?

 最近借りた本。
責罪論, ヤスパース 著 ; 橋本文夫 訳(理想社, 1965)
 なお、この本は以下のように改訳されている。

戦争の罪を問う (平凡社ライブラリー)

戦争の罪を問う (平凡社ライブラリー)


 最近買った本のリスト。

可能世界の哲学 「存在」と「自己」を考える (NHKブックス)

可能世界の哲学 「存在」と「自己」を考える (NHKブックス)

「責任」はだれにあるのか (PHP新書)

「責任」はだれにあるのか (PHP新書)

 『「責任」はだれにあるのか (PHP新書)』、電車でざっと読む。うーん、責任とはなんであるかではなくて、だれに責任があるかを知りたいんだけどな。そこについてはけっきょく逃げられてしまった。まあ当然といえば当然。イカす指摘もあったので、活かす。


 ところで、昨日書き忘れてたけど、三浦俊彦人間原理クオリア論」(『感情とクオリアの謎』7章)は、結論としてはチャーマーズが『意識する心―脳と精神の根本理論を求めて』で出しているような自然主義的二元論じゃん。その立場をとらざるをえない理由を人間原理的に示した点で意義はあるんだけど、参考文献に『意識する心―脳と精神の根本理論を求めて』を載せてるんだし、ちょっとぐらい触れておいてもいいんじゃない? と思った。
 あと、大学で前野隆司『錯覚する脳―「おいしい」も「痛い」も幻想だった』を立ち読み(借り出し数上限に達しているため借り出せない)。現在以外の時点においては私もゾンビでありうる、というのは正しい。で、脳科学の知見からして、私が現在にクオリアを感じているというのも疑わしいよ、というのだが、たとえ客観時刻の現在(脳状態の変化した時刻)とクオリアを私が感じる時刻とがずれていようと(これもちょっとよくわからん話なのだが)、私にとっての現在だけが問題なのであって、これをもって私もゾンビと変わらんと言ってしまうのは無理。ただ、「ロボット・ゾンビ・ヒトのクオリア」(『感情とクオリアの謎』6章)をはじめて読んだときと比べると、そんなにむちゃなことは言ってないな、という気になっている。