あなたのkugyoを埋葬する

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対角線論法

 だれかおれを無限論の教室か集合論の教室に連れていってくれまいか。
 おとといあたりからずっと、対角線論法に悩まされている。過去の記事(様相実在論者・俺、参上! - kugyoを埋葬する)で論じたことがまちがっているような気がする。


 集合からそのべき集合への全単射が存在しないことは、対角線論法を使って示せる。XからP(X)への全単射のことだ。さて、Xの元をn個とすると、P(X)の元は2^n個である。ここまではよい。
 では、元を3^n個持つ集合PPower(X)ならばどうか。これは明らかにP(X)より多くの元を要素とする集合なので、当然、Xからの全単射は存在しない。同様に、元をn^n個持つ集合NPower(X)への全単射も存在しないはずである。
 もとの話に戻すと、無限個の超々・豊穣な可能世界には、それぞれ無限個の知的生命が住んでおり、これら「超々・豊穣な可能世界に住む知的生命すべての集合」がNPower(X)に相当する。また、知的生命が有限個しか存在しない希薄な可能世界も無限個あるが、これら「希薄な可能世界に住む知的生命すべての集合」がXに対応する。
 XからNPower(X)への全単射はない。この場合、nは無限大なので、XとNPower(X)との濃度は(どのくらい違うかはともかく)異なっていることが言えるはずである。したがって、私がXとNPower(X)とどちらの集合の元である確率が高いかといえば、NPower(X)である、ということになる。ところが、この現実世界は超々・豊穣な可能世界ではない(必要なら、現実世界のなかにおいて同様の考察をすること)。したがって、「無限個の可能世界が実在する」、という様相実在論は反証された。三浦俊彦は正しかったのである。


 いや、おれは理系の様相実在論者であるから、ちょっと待ってもらおう。Xの元の個数がただの無限ではなかったらどうなるか? たとえばその基数が到達不可能基数(ってのがあるらしいぜ)だったら? つまり、可能世界の個数は到達不可能基数を持つ無限個である、ということなら? そのような場合には、上記のような議論ではうまくいかないのではないだろうか。


 本来なら、ここから先は職業的哲学者の仕事であると言って放棄したいところである。しかし、虚構キャラクタに対する道徳的責任ということを考えるには、このていどの議論は必要である……とまでは、さすがに言わないが。

 ところで、虚構キャラクタの権利ということに関して、知り合いのポスト・コロリアニズム研究人間からひとこと。なぜ、私たちに、そのような権利を押しつけることが許されていると言えるのか? それはまさに帝国主義的収奪ではないのか?
 もちろん、私はこの問いに答える用意ができている(答案は2種類ある)。しかし、そうした問題圏があることは、指摘されるまですっかり忘れていた。分析哲学ばかりやっていてもいかんということである。いやー、知は広大だわ。まだまだ勉強しなくてはならないことが多く、安心する。