あなたのkugyoを埋葬する

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きょキャ1-2 われわれは見殺しにしたのか

虚構キャラクタに対する罪
第1節 虚構キャラクタに責任を負うべきか
第2項 われわれは見殺しにしたのか


 ところで、われわれが責任を負ったり、罪の意識を感じたりするのは、必ずしも自分の行動を直接的原因とすることがらに対してだけではない。当然なすべきことを見逃してしまったという場合も、責任や罪は発生しよう。そこで次に、虚構的被害者を「見殺しにした」と考えてはどうか? すなわち、(2)「虚構世界で起きることに影響を及ぼせば、われわれは道徳的責任を果たせるのではないか?」である。もしそうなら、われわれは殺害をやめさせることができるのだから、それをしなかったということはわざと「見殺しにした」ことになろう。
 読者には虚構的殺人を止める能力がありそうだ。想像によって虚構世界が形作られるというなら、思い描くのを止めればいいのだし、小説やマンガなら、修正液やペンなどを使って適当に描写を書き換えてしまうこともできる。それをせず、虚構的殺人が行われるのを黙って見ていたのだから、虚構的被害者を「見殺しにした」ことは事実である、と言えそうである。それどころか、読者はその虚構的殺人が行われるのを楽しむことすらありうるのだ。
 ただし、自分が想像をやめたり、小説の描写を書き換えたりしたからといって、その虚構世界で被害者が死なずにすんだとは言い切れない。万全を期すなら、その小説が印刷され世に出回っていると知っている以上は、当該フィクション作品のすべてを書き換えたり、発禁にしたりすべきだろう。しかし、すべてとはどこまでなのか? ある作品に殺人が描かれていることがわかったら、その作品はすべて処理すべきだろう。ではその作品をすでに読んでしまったひとや、その作品の作り手の思い描きはどうするのか? もうそんな作品のことなど思い出さないように記憶をいじるのだろうか。
 おそらく、そこには優先順位をつけるべきだろう。すなわち、60億人が殺害されるような作品は、1人が殺害されるような作品よりも倫理的にひどいことを描いているから、後者を処理する前に前者の処理に着手すべきだろう。しかし、優先順位というなら、虚構作品のことより先に現実の問題を処理すべきにちがいない。同じ1人の殺害なら、虚構世界のなかで行われたものより現実世界のなかで行われたもののほうが、現実世界にいるわれわれにとっては重大であるから、虚構作品などにかかずらうよりは、現実世界での殺人を防ぐほうを優先する責任があるだろう。
 では、現実世界での1回の信号無視と、虚構世界での60億人の殺害となら、どちらを優先すべきだろうか? この問題では、倫理的にひどいほうを優先、という考えかたからすれば、虚構世界の処理のほうに軍配が上がってもおかしくない。しかし、先に述べたように、虚構世界での殺人を防ぐには、かなり多くのコストが必要となる。信号無視なら、1度信号無視を防げば(やめさせれば)すむが、虚構世界が思い描かれるのを防がなくてはならないとなると、人間の記憶や思考を操作しなくてはならない。これは現実世界での思想の自由をおびやかすことになる。したがって、現実世界の住人の思想の自由よりも、虚構世界の住人の安全のほうがだいじ、などということでなければ、少なくとも法的な責任は問えないだろう。
 そして、さらに重大な問題がある。虚構世界での殺害を防ぐ処理を行う者は、いずれにせよその殺害を思い描いていなくてはならないのだ。全人類の記憶からその殺害を消したあとで、自分で自分に処理を施せば、なんとかその問題を回避できるが、それでは、だれも虚構世界での殺害について考えることができなくなってしまうので、次に起こる(起こるとしてだが)虚構世界での殺害を未然に防ぐことができなくなってしまう。これでは、虚構世界での殺害への対策は、じっさいにその殺害が虚構世界で行われてからでなくては防げない、という奇妙なことになってしまう。
 こういうわけで、(2)「虚構世界で起きることに影響を及ぼせば、われわれは道徳的責任を果たせるのではないか?」については、「その実行の有用性は極めて疑わしい」と答えるべきだろうか。いや、そもそも原理的に言って、虚構世界で起きることに、われわれは影響を及ぼせない、という場合を、まだ検討していなかった。つまり、マンガを適宜描き変え、読者全員の記憶からその虚構的殺人を抹消したとしても、それとは関係なく、その虚構的殺人は起こっているのではないか、という問いが、まだ手付かずなのだ。そこで次にはその問題を考えてみる。