あなたのkugyoを埋葬する

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きょキャ1-4 権利なんてあるのだろうか

虚構キャラクタに対する罪
第1節 虚構キャラクタに責任を負うべきか
第4項 権利なんてあるのだろうか
 ところで、いくら見殺しにしたとはいえ、相手は虚構世界のなかにいるのである。われわれはそんな相手に責任を感じる必要があるのだろうか? つまり(4)「虚構キャラクタには権利があるのだろうか?」である。もし権利がないのなら、いくら見殺しにしようと道徳的問題はないことになる。石が蹴られるのを見逃しても、われわれにはなんらの責任も生じない。
ここで、石や虚構キャラクタに権利があるかどうかを調べるために、この問題を動物の権利の問題と類比的に論じてみよう。われわれは人間に権利を認めることにはとりたてて異論をとなえないが、動物にも権利を認めようという議論は、虚構キャラクタにも権利を認めようという議論同様、激しい反発にさらされるだろうからだ。
 哲学者ピーター・シンガーは、『動物の解放』*1のなかで、多くの人間が人間以外の動物に権利を認めないのは、彼らが「種差別主義者」であるからであり、女性差別や人種差別に反対するのと同様、種差別にも抵抗すべきだ、と述べた。彼はベンサムを引きながらこう論ずる。

 もしある当事者が苦しむならば、その苦しみを考慮に入れることを拒否することは、道徳的に正当化できない。当事者がどんな生きものであろうと、平等の原理は、その苦しみが他の生きものの同様な苦しみと同等に――大ざっぱな苦しみの比較が成り立ちうる限りにおいて――考慮を与えられることを要求するのである。もしその当事者が苦しむことができなかったり、よろこびや幸福を享受することが出来ないならば、何も考慮しなくてよい。
(『動物の解放』p.32)

 こうして、苦しむことができない石には、権利がない、ということになる。しかし、石が実際に苦しんでいるかどうかは、われわれにはわからないかもしれない。もちろんシンガーもこのことには気づいており、あるものが苦しむ能力を持っていることを認定する基準について、彼は次の3点を示している*2

  • 苦痛を推測させる外的徴候のほとんどが、人間のそれとよく似たものであること。
  • 人間とよく似た神経系を持っていること。似た神経系にまったく異なる感覚が生まれていると考えることには、合理的理由がない。
  • その神経系は、人間と同様の進化をたどったものであること。ロボットも人間と似た神経系を持ちうるし、苦痛を推測させる外的徴候をも持ちうるが、それは人工的に作られたものである。*3

動物は以上の3点を満たすが、石や植物は満たさない。こうして、シンガーは動物にも権利を認めるのが合理的である、と主張するのだが、この議論を虚構キャラクタについて適用するとどうなるか。
 まず1つめ、苦痛を推測させる外的徴候はどうだろう。虚構のなかにはありとあらゆるキャラクタが出てくるけれども、そのうち少なくともいくつか*4は、人間同様に、雄弁に私たちに快苦を表現してみせてくれる 。さらに、虚構キャラクタは、現実世界の他人よりずっと明確に快苦を伝えてくれると言えるかもしれない。なぜなら、現実世界の他人がなにを考えているかはわれわれにはわからないが、虚構キャラクタは、心内発話をもわれわれに聞かせてくれるからだ。逆説的なことに、虚構キャラクタは、現実世界のだれよりも「私」に近い位置にいるとすら言えるのである*5
 しかし、外的徴候とは言っても、たとえば虚構キャラクタを現実世界のナイフで刺したら苦しがった、といったようなことはないではないか、という反論があろう。それに対しては、人間以外のものに苦痛を与えるのには、人間に苦痛を与えるのとは異なる方法が必要かもしれない、と再反論することができる。シンガー自身は次のような例を挙げている。

もし私が平手で馬の尻をぴしゃりと強く打ったとすれば、馬は歩き出すかもしれないが、おそらく痛みは感じないだろう。馬の皮膚は十分に厚いので、人間の平手打ちくらいではたいしたことがないのである。
『動物の解放』p.40

虚構キャラクタに苦痛を与えるには、現実世界のナイフを使ってもだめであって、当の虚構世界の内部でナイフが使われなくてはならないのである。そしてそのときには、多くの虚構キャラクタは、われわれが現実にナイフで刺されたときとまるで同じように、苦痛を推測させる外的徴候を示すだろう。
 2つめは神経系の問題である。これも、人間に似た虚構キャラクタで、たとえば虚構内で解剖されたものを考えれば、現実世界の人間と差別する理由はなさそうである。彼らの神経系は虚構的神経系であるにしても、とにかくわれわれのものとまったく違うということはないのである。もし違っているなら、われわれは「ハックは脳を持っている」などということを信じられなくなってしまうだろう。けれども、われわれが常に明確に意識しているわけではないにせよ、『ハックルベリー・フィンの冒険』のなかのハックが脳を持っていることに、とりたてて異を唱えることができるとは思われない。
 ただし、彼が持っているのは「虚構的神経系」であって「(現実の)神経系」ではない、と反論することもできよう。ただし、そう反論するひとは、「(現実の)人間の神経系」により近いのは、「(現実の)動物の神経系」と「虚構的神経系」のどちらであるか、という問いに答えなくてはならない。
 3つめについても同様の議論ができよう。その虚構世界の生物学がわれわれのいる現実世界の生物学と異なった結果を出している、と言うことにじゅうぶんな理由がなければ、虚構世界でも現実世界で起こったのと同様の進化が起きていると考えるべきだろう。
 かくして、動物の権利を認める者は、虚構キャラクタにも同様に権利を認めるべきだ、ということになりそうである。「もしある当事者が苦しむならば、その苦しみを考慮に入れることを拒否することは、道徳的に正当化できない。」という格率を受け入れるならば、虚構キャラクタにもなんらかの権利を認め、それが侵害されないよう配慮する責任が、われわれにはあるのだ。
 ところが、この(4)「虚構キャラクタには権利があるのだろうか?」に対する答えと、(1)〜(3)までの議論を組み合わせると、奇妙なことが起こる。われわれは、虚構キャラクタのためになにかしてやることはまったくできない。にもかかわらず、彼らの権利を認めなくてはならないのだとすると、はたしてわれわれはどうすれば虚構キャラクタに対する責任を果たすことができるのだろうか?
 この問いに答えるには、「責任」とか「罪」とかいった概念をもう少し詳しく分析する必要がある。それに取り掛かる前に、もう1つ、根本的な問題に取り組んでおこう。

*1:ピーター・シンガー(著)、戸田清(訳)、動物の解放、(技術と人間、1988)

*2:『動物の解放』pp.34-36

*3:もう少し詳しく解説すると、こういうことになる。「苦痛を感じる」という必要最低限の危険感知システムは、進化のかなり早い段階で完成したと考えるべきで、それを持たない生物は生き残れなかっただろう。なお、植物はそれを感知しても逃げられないから、そもそも危険感知システムを持つ必要がなかった。だから人間同様の進化をたどって同様の神経系を持った生物には、おそらく危険感知システムとしての苦痛がある。しかし、ロボットのように淘汰圧にさらされずに作られたものの場合、同じ神経系相当のものを持っていても苦痛がない場合がありうる。なぜなら危険感知システムがなくてもロボットの登場には問題がないからである。

*4:宇宙人やロボットの虚構キャラクタもいるが、それは除いておく。もし議論に必要なら、それら人間に似ていないものは虚構キャラクタとして扱わない(それはおそらく、虚構のなかのただの物体なのだろう)、ということもできる。これらの取り扱いについては、現実世界での宇宙人やロボットの取り扱いにもよるかもしれない。

*5:語り手が1人称でウソをつく、といった場合もありうる。だがその場合は、われわれは語り手の心内発話を知ることができたのではない。語り手の語りを聞いているか読んでいるだけなのだ。