あなたのkugyoを埋葬する

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きょキャ1-6 われわれはどうすればいいのか

虚構キャラクタに対する罪
第1節 虚構キャラクタに責任を負うべきか
第6項 われわれはどうすればいいのか


 では、こうして足場を固めたところで、予告したとおり(6)「どうすれば虚構キャラクタに対する責任を果たすことができるのだろうか?」を考えてみよう。
 じつは、いままでの議論では、「道徳」とか「罪」とか「権利」とか「責任」とかいう言葉を、特に分析せずに使ってきた。なんであれわれわれが「権利」とか「罪」とかと呼びうる必要最小限のことを、ここまで「権利」とか「罪」とかと呼んできた、と言ってもいい。
 しかし、たとえば「罪」という概念には、いくつかの下位分類があろう。これらをいっしょくたにして議論を進めてしまったところから、われわれは第4項で「権利を認めなくてはならないが、どうすればいいかわからない」という奇妙な帰結にいたってしまったのであった。
 「罪」概念の分類で有名なのは、『責罪論』*1 におけるヤスパースの議論である。彼は「罪」を4つに区別する。すなわち、(a)刑法上の罪、(b)政治上の罪、(c)道徳上の罪、(d)形而上的な罪、の4つである。この分類は、どのような行為について成立するか、その審判者はだれか、という違いによって分けられたものだ。たとえば政治上の罪については次のようである。

この罪は為政者の行為において成立し、また私が或る国家の公民であるために、私の従属する権力の主体でありかつ私の現実生活の拠って立つ秩序の主体であるこの国家の行為によって生ずる結果を私が負わなければならないという場合に、その公民たる地位においてこの罪が成立する。(中略)審判者は、内政上でも外政上でも、戦勝国の権力と意志である。
(『責罪論』pp.42-43)

 ヤスパースの議論はもともとドイツの戦争の罪についてのものなので、こうした分類が必要である。たしかにこうした罪は、1国の国内の刑法で裁けるものではないから、刑法上の罪と分けることは理にかなっていよう。そこで今回は、この区分に従って議論を進めることにする。
 さて、現在、虚構キャラクタへの罪の成立を認める刑法、というのは存在しないようである。また、それが今後もおそらく存在しないであろうことは、第1項での議論から明らかであろう。ということは、虚構キャラクタに対するわれわれの罪というのは、(c)道徳上の罪、(d)形而上的な罪、のいずれかであるということになる。
 ヤスパースは道徳上の罪については次のように述べる。

私が結局はどんな場合にも私一個人としてなすすべての行為について、しかも私のすべての行為について、(中略)私は道徳的な責任がある。(中略)審判者は自己の良心であり、また友人や身近な人との、すなわち愛情を持ち私の魂に関心を抱く同じ人間との精神的な交流である。
(『責罪論』p.43)

この罪は虚構キャラクタへの罪となりうるだろうか? そうではない。なぜなら、第3項で見たように、私の行為はなんであれ、虚構世界に影響を及ぼすということがないからである。ということは、私の行為についての私の道徳的な責任は、虚構キャラクタとは関わりを持たない、ということだ。
 残るは形而上的な罪である。ヤスパースは形而上的な罪について、次のように述べる。

そもそも人間相互間には連帯関係というものがあり、これがあるために人間は誰でも世のなかのあらゆる不法とあらゆる不正に対し、殊に自分の居合わせたところとか自分の知っているときに行われる犯罪に対して、責任の一半を負わされるのである。(中略)審判者は神だけである。
(『責罪論』pp43-44)

 このように形而上的な罪は、自分のやっていないことに関する罪である、という点で、他の罪とは異なる*2。そしてこの定義は、虚構キャラクタへの罪について、非常によく当てはまっているように思う。
 ヤスパースが述べているのは現実世界の人間たちの連帯関係についてであるが、これを拡張して、すべての世界にいるありとあらゆる知的生命のあいだにも、ある種の連帯関係があると見なすことができる。現実世界ではない虚構世界で不正が行われた場合には、私たちにはその不正をどうすることもできないのだが、それでも責任が負わされるのである。じじつ、ヤスパース自身、形而上的な罪の例として、私が他人を殺害を阻止しないで手をつかねていた場合に感じる罪の意識、というものをあげているのだ。
 では、われわれに虚構キャラクタへの形而上的な罪があるとして、われわれはどうすればよいのか。ヤスパースは「罪の結果」という項目を立てて議論している。これはなかなかうまい立て方で、「罪をつぐなうには」ではなく「罪の結果として何が起こるか」を論じているので、原理的につぐないえない罪をも扱うことができる。ヤスパースは次のように述べる。

形而上的な罪の結果としては、神の御前で人間の自覚に変化が生ずる。誇りが挫かれる。内面的な行動によるこの生まれ変わりは、能動的な生き方の新たな源泉となることができる。
(『責罪論』p.49)

 ここで、「自覚に変化が生ずる」とあり、「変化しなければならない」とあるのではないことが重要である。形而上的な罪を自覚した人間にとっては、その瞬間に自覚の変化が単に起きてしまうのであり、したがって能動的なつぐないはありえない。
 では、どのような変化が生ずるのか。ヤスパースに従えばそれは「誇りが挫かれる」、つまりわれわれが自身の無力さを自覚するようになる、ということになろう。虚構キャラクタに関して言えば、われわれはどんなに愛する虚構キャラクタについても、彼になにかをしてやることができない。彼がどれほど苦しめられていても、われわれには救いの手を差し伸べることはできず、だまって見ているよりほかないのである。もちろん、別の虚構世界に目を向けることによって、望ましいものを見出すことはできる。2次創作などはこうした願望を満たすだろう。しかし、そうして新たに発見した虚構世界にいるのは、(第3項での議論からして)われわれが愛したその彼とは異なるキャラクタなのである。
 ついでながら、ここにおいて、われわれは2次創作に関するそこはかとない違和感を明確化し、正当化することができる。2次創作によって、たとえばある虚構キャラクタの願望を成就させようとする者は、じっさいにはその虚構キャラクタの願望を成就させているのではなく、別の(自らに都合のよい)虚構世界に目を向けただけなのである。その者は最後まで当の虚構キャラクタを正視しつづけることができなかった。ありていに言えば、愛が足りないのだ。
 以上から、(6)「どうすれば虚構キャラクタに対する責任を果たすことができるのだろうか?」については、「虚構キャラクタに対しての罪は形而上的な罪であり、われわれはそれを自覚することで、いやおうなしに自らの無力さを知る」と答えることにしよう。このことは、逆説的に、現実世界に及ぼせるわれわれの力の巨大さを示してくれる。「虚構世界のことはどうすることもできないが、現実世界を変えることはできる」という形で、現実世界について深く考え、能動的に行動する源泉となるのである。

*1:Karl Jaspers: "Die Schuldfrage"(Lambert Schneider, Heidelberg, 1946). 本勉強会のためには以下の和訳を使った:ヤスパース(著)、橋本文夫(訳)、『責罪論』(理想社, 1965)。

*2:政治上の罪は自分ではなく為政者の行為によって成立するけれども、だからといって自分の行為と関係がないわけではない。その為政者を選択した、あるいは選択できないまでも政治に関して無関心だった、にもかかわらず国民としてその国が提供する利便を享受したという点では、われわれ個人の責任でもある。