あなたのkugyoを埋葬する

主に読書内容の整理のためのブログです。Amazon.co.jpアソシエイト。

きょキャ1-7 われわれはこの議論を受け入れる必要があるか

虚構キャラクタに対する罪
第1節 虚構キャラクタに責任を負うべきか
第7項 われわれはこの議論を受け入れる必要があるか


 こうしてわれわれは、虚構キャラクタへの責任、という概念を分析し、それ以前にはなかった洞察にたどりついた。しかし、じつはまだ1つ、問われていない問題が残っている。それは(7)「道徳について議論ができるか?」という問いである。
 第5項で見たように、道徳上の罪や形而上的な罪を、他人が審判することはできない。ということは、いくら議論したところで、ある人にその罪や責任を自覚させることはできないのではないだろうか。つまり、罪の意識というのは、当人があると思えば必ずあるのであり、ないと思えばありえない、というような性質のものではないだろうか。
 これに対しては、次のような例を考えてみることが助けになる。あなたが待ち合わせに遅刻したと思って、銀の鈴かなんかに急いでいるとしよう。走りながら、あなたは待ち合わせ相手が機嫌を悪くしたら困るな、と、自分の損得を考えるのと同時に、相手との約束を破ってしまって申しわけない、という道徳的な罪の意識を感じるはずである。さて、銀の鈴に到着してみたところ、相手の姿が見えない。そこへ事情を知っている私(私はあなたのストーカなのだ)がやってきて、「待ち合わせは明日じゃありませんでしたか」と知らせる。今日待ち合わせだというのはあなたの勘違いで、あなたは実際には約束を破っていなかったのだ。このとき、あなたの罪の意識はどうなるだろうか。
 実際には約束を破っていなかったとはいえ、もし今日が待ち合わせであれば破っていたことになるのだから、罪の意識は残りつづける、という考え方もできなくはないが、多くのひとは、自分が約束を破っていなかったことに安堵し、罪の意識をなくすであろう。
つまり、他人からの情報によって、道徳的な罪をなくすことができる場合があるのだ。それならば、われわれのこうした議論によって、道徳的な罪や形而上の罪があることを知る、という場合も、あっておかしくはなかろう。
 こうして(7)「道徳について議論ができるか?」に対しては、「できる」と答えられる。