あなたのkugyoを埋葬する

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ラスコーリニコフの非・熱血

 『罪と罰』にかぎらず、ものを聖書で読むときには、聖書があまりにも強力な解釈ツールであることを忘れてはいけません。もちろん、文学の読みに対して、牽強付会であるというときには(というふうにこれから言うんだ)、テクスト内に当の読みを反駁するところがなくてはならないから、私はそれをあげることにしよう。
 『『罪と罰』における復活―ドストエフスキイと聖書』ではラスコーリニコフがすごい熱血漢であるって言われる(pp.77〜85)んだけど、あれはヒーローが自己犠牲してるんではなく、自己破滅的であると読むほうがよい。研究書で根拠としてあげられている、火災のなかから子供を助けた話なんて、まさに彼がマゾ的であることを示している。
 ラスコーリニコフは子供を助けたとき火傷を負ったと書かれている(岩波文庫版でいうとp327)。なぜかっこいいレスキューだけで止めず、火傷を負ったことまで語られる必要があるのか? もちろん、証言者のザルニーツィナ未亡人が裁判でラスコーリニコフ被告の同情を誘うためってのはあるが、それ以上にこの記述は、ラスコーリニコフの自己犠牲に見える行為がじつはどれも自分自身を追い込み傷つけるように行われていることを示しているだろう。なぜ、ラスコーリニコフは貧しいのに、金をあげるという援助の形を常にとるのか? 自分がかわって労働する、などという形での援助はひとつもない。
 貧しい人を見て衝動的に金をぽんと置いて逃げちゃうあたりは、聖書でもけっこう金で解決する話が出るらしいので聖書読みでもいけるけれども、彼の自己犠牲には常に彼の破滅が伴っている点は、そこを読み落とした者に逆襲する。
 そのうえでなおも聖書読みをするなら、本来そのような意図に基づいてなかったラスコーリニコフの行為が、宗教に帰依しはじめることによって事後的に聖書的意味づけをされる、とでもすればいいのだろう。


 なお、上記の読みを裏付ける傍証として、

  • 下巻p.91で、ずるがしこいルージンの罠からソーニャを救うレベジャートニコフが、個人的な慈善では物事を根本的に変えることはできないと考えていること。(ただし、自由思想の持ち主であるレベジャートニコフが作中でどのような地位を与えられているかは検討する必要がある)
  • 上巻pp.36-56で、マルメラードフが、聖書を引用しながらくだをまく場面で、自身の破滅的傾向(娘に売春をさせてまで飲んでしまう)を明らかにしていること。

をあげておこう。


 しかし、なぜ『『罪と罰』における復活―ドストエフスキイと聖書』では、マルメラードフのくだまきの場面について、ほとんど読解がなされないのだろう? 聖書を使って読むなら、聖書の引用部分のリストぐらい持っていると思うけど。
 これ、2007年に出た本なんだなあ。んー。


 巻末にいろいろ文献が紹介されているので、もう少し読んでみようか。なにかよいものがあったら教えてください。よいものというのは今回の場合、既存の文献に応答しているもの、ということですけども。