あなたのkugyoを埋葬する

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怒りの床屋政談

研究する意味

研究する意味


 最近まで、鼎談や対談という形になっている文書には論文としての信頼性はほとんどないと思っていた。だって私たちは口を滑らすことなんかいくらでもあるからだ。だからどんな妄言がのされていようと、談話のなかであれば割り引いて見ようと思っていたし、それをきっかけに話者への信頼を失いそうになる場合にはがんばって自制していた(談話は他の形式より話者の顔が出やすい、だから談話を話者と切り離して考えるのはとてもハードな作業だ)。ただしもちろん、談話もまたテクストであり、そいつを開放してやることにはなんの問題もないから、私はいままで、談話は文学的テクストとしてのみ読んできた。
 だが、しかし、ある講演とその質疑応答に参加してあらためて思い知ったことは、文書になった談話はじっさいの談話とは異なる、ということだ。書き言葉は話し言葉とは違う*1。だから、ある談話が文書の形で提示されているのなら、そこにはだれか(編集者? 話者?)の手が入っており、したがって無用な言い間違いなどは整理されているはずなのだ(無用でない言い間違いもあるだろう)。
 したがって、いまや私は、床屋政談レベルの・論旨の矛盾した鼎談に、というか、そんなものが掲載されたもんを書物にして世界に投入することを推奨することに加担した輩に、しっかりと怒りを覚えることができるようになる。この怒りは、そんな輩が語る権利を寡占しやがって、という怒りであると同時に、もう一つべつの怒りを含んでいる。そのべつの怒りとは、そうした輩が持っているかもしれない姑息さ、その姑息さから現れる不誠実さに対するものだ。
 談話がひろくには上記のように捉えられていないことを、すなわち、言い間違いや論旨の矛盾などをそのまま収録した“透明な”ものだと捉えられていることを、おそらくそうした輩は認識している。もしそうだとすれば、かれらは、ひょっとしたら自分たちの失言に気づいていながら、(かれらはもしかしたら“戦略的に”とさえ言うかもしれない!)その失言に特に手を入れなかったことになる。これはまずもってかれらの能力に不誠実な行いであろう。


 冒頭にあげた『研究する意味』は、大学という組織で自分系の研究者になろうかなというひと向けの本。趣味で研究している在野のひとにとっては、研究する意義なんて第一におもしろいから、で終わってしまうわけで、研究する意義を問わざるをえないのは、大学もしくは研究機関の研究者になろうかな、というひとでしかありえない。
 とはいえ、一般的な“研究者の心構え”に触れる段になると、どの研究者もとおりいっぺんのことしか言えていない。当たり前だが、個別の研究テーマについて話している部分のほうでは、みなさん生き生きしていらっしゃる。
 また、何人かの研究者が9・11に触れているなか、ひとり岡真理だけが、彼らの9・11への触れ方、つまり語り(落とし)方にひそむオリエンタリズムを、結果的に指摘していた。

*1:エクリチュールパロールとって書いてもいいんだけど、パロールの対になるのはラングだろってつねづね思ってしまってるので、そうは書かない