あなたのkugyoを埋葬する

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講演「世界の中に人を位置づける」に行ってきた

世界の中に人を位置づける―人についての四次元主義的捉え方に対する批判的検討― | Events | University of Tokyo Center for Philosophy*1


 おれもワームになって脱皮してクロックアップしたいな、と思っていたが、じつはおれらワームだったらしいぜ! と、これは、ネタバレである。


 さて上記の講演に行ってきた。講師はなんと『四次元主義の哲学―持続と時間の存在論 (現代哲学への招待―Great Works)』の共訳者のひとり、鈴木生郎さんである。
 講演は、通説の難点を指摘するもの。「人」の通時的数的同一性*2の判定基準として心理説を選択し、その難点を指摘し、それを四次元主義で克服し、その克服には難点があるという議論を展開する。
 入場無料ということがあってか、かなり基礎的な点から確認が進んでいき、安心した。『四次元主義の哲学―持続と時間の存在論 (現代哲学への招待―Great Works)』を読んでなかったので、行くまではひやひやしていたのだけど。
 以前は学会発表の中身をかなり詳しく書いてしまったけど、今回はたぶんわりと独創的な論考がされているので、書きすぎると講師のかたに申しわけないのかもしれない。このへんの慣例がどうなっているのかよくわからないので、とりあえずは安全側でいこう。それでも語れることはあるのでね。


 講演後の質疑応答のなかで、「思考」するのかわりに「思考*」するなる用語が(即興的に)導入された。これをいったいいつのまにしっかり定義したのかよくわからなかったので、私がとらえそこねていたら申しわけないけれども、「思考*」なる用語は導入する意義がなかったのではないかと考えている。ちなみに質疑応答では、「思考*」の導入によって講師の論考の不合理さが示されたようだが、私の考えでは、そもそも「思考*」なる用語がなにかおかしな用語なのだから、示された不合理さは「思考*」のせいであることになる。
 四次元主義とは、物質的対象はすべて時間的部分を持つ、という立場である。ふつう私たちは、物質的対象をとらえるときには、ある物質的対象の全体がある瞬間にあり、次の瞬間にもその物質的対象の全体がある、と考えている。しかし四次元主義では、ある瞬間に存在するのは物質的対象の一部分だけであり、物質的対象の全体とは、すなわち物質的対象とは、各時間切片にその時間的部分を持つ「時空ワーム」である、と考えるのである*3
 さて、こうした立場に基づくと、「思考」というようなもの*4は、つまり性質はどのように扱われるだろうか。
 四次元主義においては、性質は時空ワームの瞬間的な時間的部分に帰属される。もう少し詳しく言えば、ある時間切片において、ある時空ワームの時間的部分がある状態であり、そして別のいくつかの時間切片においても別のある時空ワームの時間的部分が別のある状態であり、というようなそうしたいくつかの時間切片どうしが適切なしかたで関係しているとき、それを「その時空ワームが思考している」と呼ぶのである*5
 さて、「思考*」はどうだったか、当時の質疑応答を思い出して書いてみるのだが、それは、「私は将来哲学者になるぞ」という思考を特に指す言葉だったと思う。つまり、「思考」であれば連続するいくつかの時間切片どうしだけが適切な関係であればよいが、「思考*」にはそれだけでなく、さらに別の時間切片(つまり「将来」という時間切片)が含まれている必要があるのだ*6
 さて、もし「思考*」がそのような理由で「思考」と区別されているのなら、こいつは、志向性intentionalityの議論に基づいて吟味すればよい(問題を解消できる)気がする。つまり、「私がアルファケンタウリのことを考えているとき、私と遠く離れたアルファケンタウリとのあいだに、私が机に触るというような感じで関係があることになるのだろうか」というアレだ。「思考*」には未来の時間切片が含まれていると思われていたけれども、志向性に関する議論を援用すれば、そうではないと言えるだろう。


 ところで、講演会が行われた研修室はけっこう小さくて、机だけでなく隅の椅子にもひとが多く座っていたのだけど、そのなかのおひとりが、質問のあと「イイダ先生」と呼ばれていたような気がする。講師が慶應の方なので、その関係のかたがだいぶいらしていたようなのだが、まさか、あのかたは……? そのほかにも、先生方とおぼしきかたがお名前を呼ばれるたびごとに、聞きながらどきどきしていたのだった(講師よりも緊張していたかもしれない、聴講者なのに。)。

*1:ちなみにこの講演会の開催を知ったのは、この記事、http://blog.livedoor.jp/tristanetsamuel/archives/51051898.htmlによります。どうもありがとうございます。

*2:ある時点の人と別のある時点の人とが、同一の、つまり1人の人である、ということ。ふつう数的の対義語は質的、あの机とこの机とは質的に同一。

*3:この立場にはかなり説得された。

*4:私は講演中いきおいあまって「思考は存在者ではないので……」と言ってしまって講師の賛同を得たが、それはちょっとだけ言い過ぎで、正確には「思考は物質的対象ではないので……」といわなくてはならない。結論は同じで、「……思考は時空ワームではないので、時間的部分を持たない」。

*5:このへんの理解はちょっと怪しいかも。適切なしかたで関係しているとされたのは、時間切片どうしなのか、時空ワームの時間的部分どうしなのか?

*6:こんなものを議論に導入したのは、もちろんそれなりの理由があってのことである。