あなたのkugyoを埋葬する

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「前田塁」についてすこし

 「群像」2008年6月号(群像 2008年 06月号 [雑誌])を買ったことをこのブログに記録しておくのを忘れていた。家計簿を見るに、これは5月の末に買ったらしい。あらためて記録しておこう。
 最近買った本のリスト。

群像 2008年 06月号 [雑誌]

群像 2008年 06月号 [雑誌]

文学界 2008年 06月号 [雑誌]

文学界 2008年 06月号 [雑誌]

新潮 2008年 06月号 [雑誌]

新潮 2008年 06月号 [雑誌]


 さて、この「群像」2008年6月号には、前田塁「あらゆる年齢は詐称である」という記事が載っている。○○疑惑、というテーマのもとに集ったエッセイの1つで、内容はなんということもないのだけど、そこに前田塁の署名がなされていることは、はっきり言ってかなり驚くべきことである。
 エッセイ中には、語り手の「父親」が登場する。彼は自らの生年が昭和8年でなく昭和2年だったと語るが、あとで「父親」の真の生年が「大正十四年」であったことが明かされる。もし、この語り手を前田塁であるとするなら、このエッセイを素直に読むことはまったくできなくなる。なぜなら、「前田塁」とは架空の書き手の名、批評ユニットの名、「プログラム」(前田塁『小説の設計図』表紙より)の名だからだ。プログラムに字義通りの意味での父などいようはずもなく、であるからこのエッセイ中の「父」は、私たちがはじめ受け取らされたのとは別の意味を、なにか比喩的な意味を担っていることになる。
 ひとたび「父」を肉体を持ったあのもの以外の意味にとることにしたならば、そのような肉体を持たないものに、なぜ「生年月日」なる性質がくっついているのか、それをテクストの内側で問うこともまた可能になる。「群像」巻末の執筆者一覧には、「前田塁」は71年生の文芸評論家とだけ記されている。文芸評論家と生年(月日のほうはエッセイ中で問題とはされていない)、そして「群像」が文芸誌であって執筆者の生年を載せることになぜかこだわる*1ことを考え合わせれば、我々はいやおうなく、この短いエッセイ中に詰め込まれた日付を日本文学史的に見ていこうという誘惑にかられる。
 エッセイ冒頭で語り手(=「前田塁」、と、ここでは設定したのだった)は「就職活動」を行っている。時期は「十五年前」とあり、ふつうこのようなエッセイが収録されるのはこの「群像」2008年6月号という日付を持ったものでしかありえないことを考えれば、それを1993年と断定してもよいだろう。1993年、筒井康隆の断筆宣言が思い出されるが、思えばこのころから、“純文学の終わり”なることが囁かれ出したようにも思う*2。当時は湾岸戦争に対する文学者どうしの内輪のもめごともあったし、町田康阿部和重も出ていなかった。1993年を、エッセイでは「就職氷河期」と表現している。
 では謎の「父」の語る、「昭和八年」「昭和二年」「大正十四年」とは? 昭和8年、それは小林多喜二の獄中死に明らかなように、プロレタリア文学の衰退が始まった年である。この衰退は文学内部の問題というよりは、政治的問題によって引き起こされたものだった。裏を返せば、文学はそれ自体として完結したものではないこと、文学よりも大きな物語が厳然として存在することが、日本文学に初めて突きつけられた年であったということだ。しかし「父」の生年はこの年ではなかった。さかのぼって昭和2年芥川龍之介谷崎潤一郎との論争が起こり、小説の構造に重きを置く谷崎に対し、文体とも心理描写とも取れる「詩的精神」を擁して芥川が立った。周知のとおり芥川はこの年に自殺している。ところで、この論争は、大正14年に行われたいわゆる私小説論争の再演(あるいは続き)であった。大正14年には、作家の心理描写を主軸とする小説、いわゆる私小説の価値が問題とされたのである。とすれば、「父」の語った「昭和二年」という中途半端な詐称は、文学史的には「大正十四年」までさかのぼることができることになる。
 どうやら「父」の正体も見えてきたようだ。「前田塁」なるプログラムは、批評家の位置をどこまでもあいまいにし、「前田塁」の名のもとに、さまざまな人物を包摂してしまう巨大な網としてある。校閲担当、教育者、編集部員、青土社の営業、印刷・製本・流通を担ってくれる方々、それらすべらが「その誰もが「前田塁」をかたちづくっているなどと書くことは傍迷惑以外の何者でもないだろうが」と書かれてしまう(『小説の設計図(メカニクス)』p.240.)。こうして「前田塁」のエクリチュールから“私”はかき消される、というか、そこにいる“私”はだれであるとも決めることができないために、“「私」の心理”などありえないようなエクリチュールが、こうして実現しつつある。そこに残るのは、昭和2年に谷崎が擁護したような構造だけだ。大正14年に生み出された、“私小説論争”の提起した問題に対し、その問題意識を受け継いだ“子”たる「前田塁」は、固有の名前「前田塁」を持っていながら“私”を消去するという離れ業(これはピエール・メナールにもフェルナンド・ペソアにもできなかったことだ)を用いて、応答をはじめたようである。


 そして、前田塁による単行本出版やあのつまらないエッセイの掲載によって明らかとなりつつあることは、たとえそれほど斬新でもなく危機意識に貫かれてもいない文章でも、あるていど凝った装丁で書店に並べて売ってしまえるということでもある。大塚英志はかつて、資本主義下では既存の文学など“不良債権”化するしかないと述べたのだけれども、資本主義ってじつはそこまでシビアなものなのかどうかを、この一部の好事家が稼動させるプログラムは問い返している。たとえほとんどすべてのひとにとって金を出す価値がないものだろうと(このポストモダン的状況下でそうでないものがあるとも思えないが)、一部の好事家が金を出すと言えば、それでそのものは商品になり、その見込まれる金の多寡によっては他の商品を明確に(本屋の棚の上から)押しのけることさえできる。“不良債権”だろうと商品になりえてしまう、これが資本主義の恐ろしさである。
 なお、大塚について言えば、彼は別のプログラムを使って、自らに応答しようとした。そのプログラムの名とはもちろん、「文学フリマ」である。ただし、大塚が自らの問題意識に誠実だったいっぽう、前田塁は、そもそもその問題の立て方じたいが、「前田塁」と名乗りさえすれば回避されてしまうような甘いものだったのだ、という可能性を示している。それはまた、われわれが筆名を名乗るということも、「前田塁」が企むあの“私”の(消失ではなく)拡散効果をもともとは目指していたのではないか? という読み替えさえ誘発し、ここにおいて、前田塁の批評と「前田塁」の効果とが一致する。


参考にしたサイトは下記。
http://uraaozora.jpn.org/index2.html
http://homepage3.nifty.com/mcg/mcgtext/bunron/bunron2.htm

*1:「文学界」には、プロフィールが「未詳」となっている相馬悠々の連載がある。

*2:この言い回しにはなんの説明力もない。“純文学の終わり”が囁かれなかった時代などあっただろうか? ただし、いちおうの傍証として、1993年2月号の「海燕」に載った笠井潔の「 そして「純文学」は消滅した」を挙げておく。