あなたのkugyoを埋葬する

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科学基礎論学会に行ってきた

 先輩に紹介していただいた、科学基礎論学会2008年度講演会に行ってきた。東京電機大学で開催されていたのだけど、地図がわかりづらくて神田駅を出てから20分ぐらいうろうろしてしまった。もっと明確な地図を用意してくればよかった。
 哲学者ってみんな似たような顔をしているなあ、と思ったら、先日見たその同じ哲学者を今日も見たのだった、ということが何度もあった。こういうことはよくあって、このサンダルははやってるのか? と思ったら、同じ女の子が同じサンダルをしょっちゅうはいていただけだった、という例もある。
 当日の発表内容については、下記の公式ページをご覧いただきたい。
科学基礎論学会
 私が観覧した発表は次の7つ。

  • D・ルイスの慣習概念と高階の予測(筒井晴香)
  • ルイス流の可能世界を還元する(小山虎)
  • 現象的意識の準一階説の提案(佐藤亮司)
  • 知覚についての選言主義(横山幹子)
  • 「知るは指標詞だろうか(神山和好)
  • 統計的モデル選択の問題(山口健太郎
  • 因果の矢の客観性について(森田邦久)


 詳しく内容には触れずに(上記ページに概要が載っていることだし)、軽く感想を。
 「D・ルイスの慣習概念と高階の予測」は、東京大学大学院総合文化研究科広域科学専攻相関基礎科学系の筒井さんの発表。よくまとまったスライド・概要作りはさすが東大といったところか。我々の持ってる恣意的な慣習(自然の規則性に従っているわけではない慣習)は、高階の*1予測によってのみ生じうる、というルイスの議論の擁護が主眼。質問として、筒井さんの議論で前提として使われている「前提知識」の定義があいまい、というものが出ていたが、これに対してはたぶん、一階の予測に従っていると見なすのが難しいような慣習の例を示せばよかったのではないだろうか。発表で例として使われていた図書館の例*2だと、一階の予測(相手は端的に前例に従うという予測)だけでじゅうぶんになってしまうわけだが、たぶんもっとよい例があると思う。
 「ルイス流の可能世界を還元する」は慶應義塾大学文学部の小山先生の発表。これはなんと、みんなだいすき*3様相実在論に対しての反駁を試みるもので、これがもし成功していれば私はだいぶ困ったことになる。しかし、前半の可能世界意味論への各種説明の紹介に時間を割きすぎたため、肝心の反駁の中身が(配布されたハンドアウトを見ても)ほとんどわからなかった。特に、(小山先生は様相主義を擁護するわけだが)Lewisの指摘した様相主義の欠点を、小山先生の提案がどう克服しているのかが検討されていなかったように感じた。しかしこの発表は重要な指摘であるから、いずれ論文にまとまるだろうと思う。それを待ちたい。
 「現象的意識の準一階説の提案」は東京大学の佐藤亮司さんの発表。これも、動物や幼児に意識があるということを正当化できる議論なので、最近までの私の関心に近い発表だ。槍玉にあがった意識の高階説とは、「ある状態が現象的に意識的である」とは「高階の信念*4を形成することが可能なときである」と考える立場で、これにより「車を運転しながら考えごとをしているとき、車を運転することに関わる無意識的な経験があったはずだが、そうした現象的に無意識的な感覚と現象的に意識的な感覚とはなにがちがうの?」という問題を解決できる。しかしこの意識の高階説をとると、動物や幼児のような高階の信念を持たないように思われるものは、意識的な状態を持たないことになってしまう。そこで、「外界についての評価的な状態」を「準信念的状態」(信念ではない)と名づけ、この準信念的状態によって知覚状態が利用可能であることが、現象的に意識的であるための必要十分条件だ、と考えたらどうか(「意識の準一階説」)、というのが、発表の趣旨だった。
 ただ、動物や幼児にそこまでして意識を認める必要があるかは疑問である。たとえば、意識なしの痛みというのがありうるとすれば、シンガーが言うような生命倫理にとってはそれでじゅうぶんである*5。動物が一階の信念のみで行動しているとは思えないという点については、複雑に見える行動も進化的に説明できちゃうと思う(創造論者にむかしよく取りざたされた鞭毛みたいに)ので、やはり心配はいらないと思う。つまり、信念ではない外界についての評価的な状態、という奇妙なものを考えなくても、高階説ですんでしまうのではないか。
 「知覚についての選言主義」は、筑波大学の横山先生の発表。議論の扱っているものが複雑*6だったし、扱われている非選言主義という立場になじみがなかったため、フォローするのが難しかった(これは私の責任)。いまレジュメを読み返してなんとか理解できた範囲では、横山先生の議論は成功していると思う。ところで、質問タイムで信原幸弘先生が指摘したことだけれども、心の哲学においてseem(思える)とthink(思う)とは厳密に区別されるべきものなのだそうだ。なるほどね。
 「「知るは指標詞だろうか」は、知識の認知的文脈主義を擁護するDeRoseの議論を論駁し、認知的文脈主義には依然として難点が残っている(そのかぎりで、知識の不変主義にもまだ見込みがある)という議論。しかしこれも前半の文脈主義の解説に時間をかけすぎたため、容赦なく打ち切られてしまった。ただ、レジュメを見たかぎりでは、正しくDeRoseの論点先取を指摘できていると思う。
 「統計的モデル選択の問題」は、京都大学の山口さんの発表。これぞまさしく科学基礎論と聞いて私がイメージするもので、確率の哲学にも関連している。データが与えられたときの統計的モデル選択の基準として、どんなものがふさわしいのかを考える議論だったと思う……概要を見るとその先まで視野に入った発表だったのかと思うが、聞いたかぎりでは、統計的推論のよさは何によって与えられるのかを考えた議論だったはず。
 「尤度」を「ゆうど」と読むのをはじめて知ったていどの素人なので(いや他の分野にだって素人だけどさ)、議論の細部しかつかめなかったのだが、統計的推論のよしあしというのはやはり予測力の強弱で測るのがよいと思うし、そのためには仮定するパラメータの数がより少ないようなモデルを選り好むような基準がよいと思う。プロットされたデータに曲線をあてはめるようなときに(カーヴ・フィッティング)、無限個のパラメータを持つような曲線を選り好むような基準では、予測力がないでしょう。ただしこれだと、では予測力の強弱はどう測るのか、という点で、また同型の問題が発生してしまうかもしれない。
 「因果の矢の客観性について」は、大阪大学の森田先生の発表。このかた、なんとあの「http://www.geocities.jp/enten_eller1120/philindex.html」の運営者だったのですね。今回の議論は、ほとんどの場合原因は時間的に結果に先行すること、すなわち「因果の矢」という非対称性の起源は、ある部分は客観的なもの(世界の側に非対称性がある)であり、ある部分は主観的なものである、とするものでした。概要を読んだとき、Doweがその実在を主張する「フォーク」ってなんだ? クォークの仲間? と思っていたら、なんと、因果過程のことだったのですね。それはちょっと無理があると思う、世界をよく観察したらフォークが発見されました、なんてことがあるとは思えないのだが。ともかく、森田先生はDoweのフォーク理論によるのではなしに、因果の矢のある部分の客観性を示そうとしていたのだが、あまりうまくいってないように思えた。ただし、因果の矢が主観的であるとして、なぜ主観にはそのような非対称性が現れるのか、という疑問が生じるけれども、これに対しては森田先生は、Priceの応答とは別の方法で応答していたので、意義ある発表だったと思う。


 以上、思い出しながら感想を書いた。「高階」っていいことばなので、みんなもメタなんて言わずに高階って言ったらどうだろうか。これは特に三階以上のことを言うときによい。二階であればメタ〜って言えばいいけれども、三階以上ではメタメタ〜って言わなくてはいけなくて困るのだ*7
 若い方々が非常に鋭い発表や質問をされていて、とても勉強になった。上で動物の意識とシンガーの論との関係について書いたけど、そういう質問を直接しようかどうか迷っていたら、その私の疑問を含んだうえでさらに発表の内容に踏み込んだ質問をされた方がいらして、かなわねえなこりゃと思ったものだ。
 科学基礎論の方々に頼んでもしかたないかもしれないのだけど、芸術の哲学や虚構論もばりばりやってください!

*1:「高階の」「一階の」、この区別を考えたやつはほんとにすごいと思う。便利なことばだ。

*2:図書館で偶然出会う経験が続くと、Aは「Bが『図書館にいるだろう』と予測するだろう」と予測し(これが高階の予測、予測についての予測)、結果として図書館で待ち合わせるという慣習が取り決めなしに成立する、という例。

*3:デイヴィッドのことが大好きだよね? デイヴィッドは もちろん きみのことも知ってるよ うれしいなあ〜

*4:高階の信念とは、「私は『ウサギがいる』と信じている」みたいな、信念についての信念ね。

*5:ところで、発表でもシンガーについて触れていたから言うのだけど、シンガーにとっては動物に意識があるかどうかすら問題ではなく、痛みを感じているように見えればそれでよいはず……あとは神経系と進化との基準もあるけど。もちろんそうでない生命倫理の立場があるだろうからそれはそれでいいんだけど、シンガーを引き合いに出すのは適切でないと思う。

*6:われわれは外界を直接知覚しているのか、それとも間接的に知覚しているのか、という論争への応答となる選言主義という立場・に対する批判としての非選言主義という立場・という以上2つの立場間でのいままでの論争は論点が明確でない・という議論は正しくない・という議論に論駁する、というのが、横山先生の議論であった。

*7:困るというのは、メタメタ倫理学がメタ(メタ倫理学)やメタ(メタ(倫理学))やメタ(メタ)・メタ(倫理学)などと同値なのかどうかはっきりわからなくて困るでしょ、ということ。