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首尾一貫性に基づく作者の意図の擁護、を論駁する(『文学をめぐる理論と常識』について)

文学をめぐる理論と常識

文学をめぐる理論と常識

 アントワーヌ・コンパニョン『文学をめぐる理論と常識』第2章は、この本の他の章と同じく、「作者の意図を探ろうとする文学解説派と、作品の意義を記述しようとする文学解釈派」(p.45より)の対立を調停し、「その一見いさぎよい二者択一からは、実態は見えてこない。真実はおそらく、両極端の中間にある」(p.311、訳者あとがき)ことを示そうとした章である。ところで、私はがちがちのテクスト論者であり、もし「どんな文学研究でも、意味を保証してくれるものとして、作者の意図を暗黙裡に想定している」(p.101)ことが示されたというのなら、私にはそれに反駁する用意がある。

コンパニョンの2つの議論

 コンパニョンは次のように言う。

 作者の死の信奉者でも、たとえば皮肉や風刺について語るのを諦めたことは一度もない。ところがこれらの範疇は、あることを言って別のことを理解させようとする意図に準拠するのでなければ意味をなさない。ラブレーが『ガルガンチュア物語』のプロローグで読者を揶揄しつつ否認しようとしたのは、このような意図である。同じように、比較断章法(パラレルシュテレンメトーテ)が援用されるのも―あるテクストの難解な一節を解明するために、別の作者の一節よりも、同じ作者の別の一節のほうを好む傾向がある―、どれほど懐疑的な人たちにも、作者の意図に対するある種の信仰が生き残っている証拠であろう。


(p.70)

意味不明の語の意味を明らかにするには、別の作者の一節よりも、同じ作者の比較断章のほうがつねに重視されるようだ。比較断章法は、こうして暗黙のうちに、もくろみや、熟慮の末の計画や、先行する意図としてではなくても、少なくとも構造や、体系や、実行された意図として、作者の意図を援用しているのである。実際、テクストの意味を確定するのに作者の意図が妥当でないと判断されるのなら、おしなべて同じ作者のテクストが優先される理由をどう説明したらいいのかわからなくなる。


(p.74)

 作者の意図に反対する人がテクストを援用するとき―両者は、あまりにもしばしば二者択一として提示される―、たいてい基準として引き合いに出されるのが、内在的な首尾一貫性と複雑さであるが、それはじつのところ意図を想定することによってのみ正当化される基準である。ほかの解釈よりその解釈が優れていると考えるのは、それによりテクストがより首尾一貫し、より複雑になるからだ。解釈するとは仮説を提示することで、その仮説にテクストのできるだけ多くの要素を説明する能力があるかを試しているのである。ところが、かりに詩篇が偶然の産物だとすると、首尾一貫性や複雑さという基準になんの意味があるだろうか。解釈のために首尾一貫性や複雑さを援用する場合でも、作者の確実と思われる意図にもとづくのでないかぎり意味はないのである。


(p.101)

 さあ、ここでコンパニョンの議論は2つあり、前者は次のように展開されているととることができる。

  • 比較断章法では、同じ作者のテクストが優先して用いられる。(1a)
  • 作者の意図が考慮されないならば、同じ作者のテクストが優先して用いられることはない。(1b)
  • したがって、(1b)の対偶(用いられるならば考慮される)と(1a)から、「作者の意図が考慮される」が導かれる。(1c)

 また、次のような議論もなされている。

  • テクストが作者の意図によらないものだとすると、首尾一貫性や複雑さという基準に意味がある。(2a)
  • テクストが作者の意図によらないものなら、首尾一貫性や複雑さという基準に意味はない。(2b)
  • したがって、テクストが作者の意図によらないものだ、ということはない。(2c)

 このうち、(1b)についてはコンパニョン自らが反論を想定しており、それが(2a)である。私はこれから、(1a)と(2b)とに反駁し、これによって(1c)と(2c)とが誤っていると結論したいと思う。

反駁(1) ラディカルなテクスト論こそ整合的だ

 まず(1a)について。コンパニョンは上の引用部分で、「あるテクストの難解な一節を解明するために、別の作者の一節よりも、同じ作者の別の一節のほうを好む傾向がある」と言い、その直後に「どれほど懐疑的な人たちにも、作者の意図に対するある種の信仰が生き残っている証拠であろう」と言っているが、これは不当な一般化の誤りを犯している。
 「懐疑的な人」に言わせれば、コンパニョンの言う「傾向」は、「作者の意図に対するある種の信仰」を持っているひとびとのあいだにだけ見られるのであって、「懐疑的な人」はそうでない読解をしうる。彼ら「懐疑的な人」はこう言えるだろう:「なぜ、同じ作者の別の一節を重視する必要があるのか?」
 しかし、この「懐疑的な人」たちの考え方は、“1つのテクスト”なる概念に深刻な疑義を提示するように思える。もし、同じ作者の別の一節を解釈に利用する特別な理由がないのであれば、ある本に収録された一連の文を、“1つのテクスト”に属すると考えるべき理由もまた、ないのではないだろうか? 1つの本に収録されているからか? それでは、本を上下巻の分冊にして出版したら、それらは“2つのテクスト”になってしまうとでも言うのだろうか?
 「懐疑的な人」は、こうした疑義に対し、次のように答えられる:「そのとおり!」。たとえ同じページにある一連の文だろうと、あるいは同じ行にある2つの文字だろうと、それらを“1つのテクスト”として捉えるべき必然的な理由はなにもない。では「懐疑的な人」はテクストを読むと言うときなにをしているのか? じつは彼らは、それらがある基準のもとでよいテクストとなるよう、適切な文章(文、文字、文字の一部……)を選び出しているのである。それらが同じ本の中にあるものでなくてもよい。
 これはとんでもなく破壊的な読みかたに見えるだろうか? いや、じつはこうした読みかたこそ、作者の意図を考慮したいひとにとっても維持できるものなのだ。
 彼らは、彼らの基準にかなうのであれば『コズミック流』『コズミック水』『ジョーカー清』『ジョーカー涼』を“1つのテクスト”として設定するし、別の基準が必要なときには『コズミック流』だけを“1つのテクスト”として設定するのである。あるいは、もし必要なら、『コズミック流』と「清涼院流水の履歴」とを“1つのテクスト”としてもよい。こうして、作家論はテクスト論に吸収される。
 また、この読みかたが現実離れした恣意的なものだ、という批判も当たっていない。なぜなら私たちは、ふだんまさにこうした読みかたをしているからである。あなたはテクストを読み飛ばしたことはないだろうか? そうしたときには、あなたはある基準のもとでよいテクストとなるよう、不適切な文章を選別しているのである。あるいは、本を読みながら別のことを考えたことは? このときには、その別のことというのが、読んでいるものとあわせて“1つのテクスト”となるのだ。

首尾一貫していないテクストの首尾一貫性

 さて、(1a)(1b)双方が否定されたことで、(1c)は健全な結論ではなくなった。ところで、これまで“ある基準”の正体を明確にしてこなかったが、これが2番めのコンパニョンの議論で取り上げられている、「首尾一貫性や複雑さ」である。正確に言えば、「首尾一貫性や複雑さ」は、それをより強く満たすことで“興味深さ”の基準をより強く満たすという基準であるから、「首尾一貫性や複雑さ」以外の基準を満たすものが“興味深さ”の基準を満たすと考えるひとにとっては、この“ある基準”は「首尾一貫性や複雑さ」以外のものであってよい。しかし、私たちは文学を読むとき、首尾一貫性を持ち複雑であるものを興味深いと感じる傾向が強い。
 トリビアルな問題をひとつ片付けておこう。私たちはときに、首尾一貫していないテクストを興味深いと感じることがある。首尾一貫しないテクスト、たとえばシュールレアリストの文章を“1つのテクスト”として読んだとき、私たちは何に“興味深さ”を感じるのだろうか。これはコンパニョンの議論に対してもよい反例となっており、コンパニョンは非常に苦しいしかたで「偶然が生み出す文学の典型であるシュールレアリストたちの言葉遊びでは、意味は超現実の意図に、いわば目に見えない手に委ねられている。」(p.100)と言うしかないが、これは作者の意図による説明ををほとんど放棄している。超現実は意図を持たないからである。
 さてこうした“興味深さ”の基準について考えるときには、そのテクストがどういう意味で「首尾一貫性」を持たないのかを考えることが助けになる。私たちは意味論の常識を外れたテクストを読むことで、不安になったり、言語や想像力の新たな可能性に気づいたりする。ということは、そのテクストは、“読者を不安にさせる”とか“言語や想像力の新たな可能性に気づかせる”という目的のためには、「首尾一貫性」を持っていることになる。したがって、こうした首尾一貫しないテクストの問題は、“ある基準”として「首尾一貫性や複雑さ」を持ち出すことへの反例とはなっていない。

反駁(2) 指示の魔術説批判を批判する思考実験

 次には(2b)にとりかかろう。「テクストが作者の意図によらないものなら、首尾一貫性や複雑さという基準に意味はない。」というのがコンパニョンの主張であり、彼は次のような例を出して説明する。

 私としては、この連続する三詩句*1において、一人称の代名詞「私」が同じ主体を指していると認めざるをえない。この想定に立つほうが、別の想定をするより、テクストはより首尾一貫し、より複雑(より興味深いもの)になる。かりに詩篇が猿がタイプに打ったものだったら、私がこのような推論をするのは許されないだろう。私ができるのは、ひとつひとつのセンテンスがほんとうに使われた場合にどんな意味になるかを記述することだけになるだろう。


(p.101)

 さて、この例は、哲学者パトナムの「指示の魔術説magical theories of reference」批判と通底するものがある。パトナムは、蟻が浜辺を歩いた跡がたまたまチャーチルの似顔絵とよく似た形になったからといって、その跡はチャーチルを表現しているのではない、と言う。表現すると考えるものは、ある名前とその名前の担い手とのあいだに魔術的な結びつきがあるという考えかた、「指示の魔術説」の信奉者である、というのだ(パトナム『理性・真理・歴史』*2)。
 しかし、この「指示の魔術説」批判には奇妙な点がある。いま、蟻が浜辺を歩いた跡の隣に、あるひとがチャーチルをほんとうに表現しようと思ってチャーチルの似顔絵を描いたとする。あとからやってきたひとは、その2つの絵を見分けられない。そこであとからやってきたひとは、両方をチャーチルの似顔絵と考え、チャーチルを表現したものとして、数々の言明をなす。ところが、蟻がつけた跡についての言明は、ひとが描いたほうと異なって、つねに空虚に真であることになってしまう。これは奇妙な帰結ではないだろうか。
 パトナムに、これとは別の批判も与えておく。こんどは、蟻が浜辺を歩いた跡と、あるひとが描いたチャーチルの似顔絵とが、本質的に異ならないことを示す議論である。一団の人々が、巨大なチャーチルの似顔絵を壁に描く仕事に従事している。あまりに巨大な似顔絵なので、人々は分業を行っており、しかも各々は自分の作業内容しか知らないとしよう。つまり、似顔絵の全体像を把握している者は、一団にひとりもいないのだ。すると、チャーチルを表現しようと思っているひとがだれもいない以上、できあがった似顔絵は、蟻のつけた跡と同じで、チャーチルを表現しないことになるのだろうか。そんなことはないだろう。
 こちらの批判には、彼らに作業内容を与えた監督者の意図に訴えて再反論することができよう。よろしい。それでは、監督者にも作業に加わってもらうことにしよう。ただしこのたびは、一団の人々はあらかじめ作業内容を与えられているのではなく、てんでばらばらに壁にペンキを塗っていることにする。したがってこの作業が終わっても、壁にチャーチルの似顔絵のようなものは現れない。さて一団の人々がいなくなったあとで、監督者が壁を見て、驚くべきことに気づく。なんたることか、一団の人々がてんでばらばらに塗った壁面の、ある1点に白いペンキを塗りさえすれば、それはチャーチルの似顔絵そっくりになるのである。劇的な変化の可能性に気づいた監督者は、たまたま白いペンキを手に持っている。
 状況をさらに万全にしよう。この様子を無学な盗賊(チャーチルの似顔絵など見たこともない)がひそかにうかがっていて、やおら監督者の頭を殴って気絶させる。監督者が気絶したのち、はずみで白いペンキが壁の例の1点に付いてしまう。監督者が目を覚ましたとき発見するのは、事務所の金がなくなっていることだけではないはずだ。このとき、監督者はチャーチルの似顔絵を描いたわけではない。それどころか、描こうと思って何かをなしたわけでもない。しかし、この完全に偶然の産物であるペンキの跡は、まちがいなくチャーチルを表現している。


 以上のことからわかるのは、「かりに詩篇が猿がタイプに打ったものだったら、私がこのような推論をするのは許されないだろう」というコンパニョンの主張が正しくないことである。たとえ偶然の産物だったとしても、ある文章がある表現であるかのように読めるのであれば、そう読むことを阻むものは何もないのである。そして、そう読むことで「首尾一貫性」その他の基準が満たされるのならば、私たちはそうすべきであろう。
 こうして(2b)は反駁された。

結論

 まとめよう。コンパニョンの主張は誤っている。私たちは作者の意図を想定することなしに、文学テクストを読むことが可能である。私たちはある本の好きな部分を“1つのテクスト”と考えてよいし、そうしたければぜんぜん別の本でも、あるいは作者の意図を示すような歴史的記述でも、それに組み込んでよい。そしてそれぞれのそうした読みの価値は、おそらく「首尾一貫性」その他の基準で測られる。つまり、より興味深い「“1つのテクスト”に対する読み」(これには“1つのテクスト”の選定も含まれる)が、より価値を持つのである。


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*1:引用者注・ボードレール詩篇「ワレトワガ身ヲ罰スル者」のこと。「私は」で始まる行が3行続く。

*2:ただし、このことの説明はパトナムの論の主眼ではない。