あなたのkugyoを埋葬する

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グッドマン・アンド・エリン

 始まりが終わると始まるのである。


 勉強会で以下の論文を扱った。

The Philosophy of Literature: Contemporary and Classic Readings - An Anthology (Blackwell Philosophy Anthologies)

The Philosophy of Literature: Contemporary and Classic Readings - An Anthology (Blackwell Philosophy Anthologies)

  • J.O.Urmson,"Literature".
  • N.Goodman and C.Elgin,"Interpretation and Identity: Can the Work Survive the World?".

ずっとElginをエリンと呼んでいたが、いま調べたらエルギンだった。(『記号主義―哲学の新たな構想』を見よ)バットマンアンドロビンみたいだなあと思っていたのは失敗である。
 とにかく、もし共著論文であれば、その主張を再構成して紹介するときには、「グッドマンは〜と考えました」ではだめで、「グッドマンとエルギンは〜」と言わなくてはだめだと思うが、私がグッドマンを好きすぎるため、グッドマンの名前を呼びすぎてしまった。おーいグッドマーン、とんでこいー。


 Urmson論文は、文学作品の鑑賞はほかのなにの鑑賞と似ているのかを考えることで、文学の特徴を考えていた。結論としては、文学作品は朗読というパフォーマンスのための台本だ、ということになっているが、台本は芸術作品でないとすると、文学作品もまた芸術作品でないことになる。あるいは、朗読というパフォーマンスこそがじつは文学作品と呼ばれるべきものなんだ、ということになると、じゃあそこで朗読されているソレはいったいなんなの? ということになる。
 もちろん、Urmsonは導入していない区別として、そのソレをテクストと呼ぼう! という手はある。そこで、次にはGoodman and Elginの論文で、ある文学作品を同定する基準とはなにか? それは解釈なのか、テクストなのか、テクストだとすれば、テクストはほんとうに確固たる同定の基準になりうるのか? を考察してもらった。
 Goodman and Elginはさまざまな反例候補を検討した結果、テクストを基準とする考えにお墨付きを与える。しかし、そうした反例を検討するためには、文学作品の作者について考えなくてはならない。そしてそこから、Goodman and Elginの論証はほころびはじめる。ここは勉強会でも出ていた質問だけど、作者について考えずにすませることは、彼らにはできないのだ。なぜなら、自らの仮説(テクストが基準だ説)を空虚でなく意義あるものにするためには、どんなことが起きたらその仮説が反証されるかを言わなくてはいけなくて、それを考えるためには作者に出てきてもらうほかなかったからだ。


 ところで、id:optical_frogさんがまたも内容のある記事を(しかも素早く!)書いていらっしゃいます。(kugyoさんの「応答」への応答 - left over junk)
 たいへんありがたいことで、しかも私にはその記事に関して言いたいことがあったので、すぐにでもお返事させていただこうと思っていたのですが、Goodman and Elginの論文、そしてそれに接続する我らがGregory Currieの論文を読んで、いま考えを整理しています。おそらく、私の提示している汎テクスト論という立場にとっては、テクストとはどんな基準によって同定されるのか(テクストとはなにか)という問題を解決する必要があります。これはじつはなかなかやっかいな問題で、Goodman and Elginは構文的基準で同定できると思っているようですが、それではじつは汎テクスト論にとってうまくありませんし、またGoodman and Elginにとってもうまくありません。このことについては、またあとで触れます。
 あと、パトナムについては、またもや反論のポイントを間違えていたような気がしてきました。パトナムにとって「表現」とは指示を含むので、そこには問題はなく、それよりもむしろパトナムが、宇宙人が木のない星で描いた緑の模様について「これは木の絵ではない」と断言してしまっているところを突くべきでした。このときのパトナムはたぶん内在論者なのに、「これは木の絵ではない」ということが言えるのでしょうか? しかし、これについて考えるためには、まずパトナムの内在論者としての立場を考える必要があります(内在論者とはなにを考えているひとのことなのか?)。いずれにせよ、パトナムは、汎テクスト論者を支持する論考を書いていると思っています。もとの記事で、パトナムの「指示の魔術説」批判がパトナムの主眼ではない、と書いたのはそのためなのですが、とにかく、パトナムについてはもう少ししっかり触れる必要がありそうです。とりあえず、現状のところ、「うかつ」なのは私のほうです。


 そんなわけで、id:optical_frogさんの「応答」へのお返事は、あとで書くことにします(来週にはCurrie論文について勉強会を開くので、それをにらみながら)。こうしてブログ間で議論が成立するのはたいへんうれしいことです。*1
 また、上述の勉強会については、それとは別にまとめることになると思います。

*1:奇跡論法に訴えて、意識の実在を認めたくなってしまいます(笑)。もちろん、この奇跡論法は失敗すると思いますが。