あなたのkugyoを埋葬する

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optical_frogさんへの再々応答:虚構かそうでないかを決めるには

 id:optical_frogさんからお返事をいただきました:
「応答」未満のお返事:やっぱりたんなる論理的な可能性では足りないと思います - left over junk
 論点は「実用論的汎反意図主義」と名づけた私の立場の意義、そしてそれへの対案としてのoptical_frogさんの立場の妥当性の検討に移ってきたと思います。以下、2項に分けて、応答したいと思います。

まとめ(A)について けっきょく、コンパニョンは間違っている

 分析哲学のよき伝統のひとつに、相手の主張をより妥当な形に仕上げたうえで、それでも反駁が可能であることを示す、というのがあると思っています。そこでここでも、optical_frogさんの診断どおり、コンパニョンの主張を以下のようなものだとひとまず考えることにしましょう:

  • バージョン 2:実際的な必然性として,テクストの理解において参照される発語内意図が猿やキーボードのものであることはありえない;しかし,論理的には可能である.

 ところで、もし猿によってタイプされたテクストを解釈するのに「猿の発語内意図」が必要であると議論するのであれば、それは「テクストの解釈には作者の意図が必要である」というコンパニョンの主張に加担していることになります。コンパニョン自身は、猿によってタイプされたテクストはそもそも解釈できない、と述べているので、コンパニョンの主張の捉えかたとしてバージョン2を利用するのは間違いとは言えませんが、反意図主義者とコンパニョンとの争点はそこではなかったはずです。猿によってタイプされたテクストを解釈するのに「猿の発語内意図」が必要であるとする立場を“強い意図主義”として、3つの立場をそれぞれまとめると、次のようになるでしょう:

  • コンパニョンの主張:猿によってタイプされたテクストは、解釈できない。猿の発語内意図などというものは、実際的には考えられない。
  • 強い意図主義:猿によってタイプされたテクストは、猿やキーボードの発語内意図によれば解釈できる。猿の発語内意図だって、論理的には考えられる。
  • 反意図主義:猿によってタイプされたテクストは、虚構の語り手の発語内意図によれば解釈できる。虚構の語り手として作者や猿やキーボードのような現実の存在を指定してもよいが、そうしなくてもよい。首尾一貫性や複雑さといった、興味深さの基準を満たすような解釈が生まれるように、虚構の語り手(と、その発語内意図と)を設定するのが望ましい。

 こう考えると、バージョン2は、強い意図主義とコンパニョンの主張との争点であったことがわかるでしょう。また、猿の発語内意図などというものが実際的に必然的であろうとなかろうと、あるいは現実の猿に意図があろうとなかろうと、反意図主義者にとっては問題でないこともわかります。
 おそらく、私の1度目の応答(この記事、特に「応答(2)」)での不用意な記述が、強い意図主義者の主張と反意図主義者の主張とを混同させてしまう原因になっていたのだと思います。その部分で汎反意図主義者は、人間や舌やペンキや人間の集団やキーボードといった現実の存在にばかり発語内意図を帰属させようとしていますが、もっとも重要なのは、虚構の存在にも発語内意図を帰属させることができるという点でした(こういうことは強い意図主義者やコンパニョンにはできません)。
 では、ここまでの議論から、私が真に反駁すべきコンパニョンの主張をはっきりさせましょう:

  • バージョン 3:実際的な必然性として,テクストの理解において参照される発語内意図が虚構の語り手のものであることはありえない(実際の作者の意図と想定されるものが参照される);しかし,論理的には可能である.

この“実際の作者のものと想定される発語内意図”は、“想定される”という点でけっきょく“虚構の語り手の発語内意図”のひとつである、と考えることもできそうですが、実際にはそうではありません。これは、実際の作者の意図に関する新たな資料が発見されたときのことを考えれば明らかでしょう。この発見によって“実際の作者のものと想定される発語内意図”は大なり小なり改訂されるでしょうが、“虚構の語り手の発語内意図”は何の影響も受けません(受けてもかまいませんが)。
 こう考えると、コンパニョンの(問題含みの)主張がさらにはっきりしてきます:

  • バージョン4:実際的な必然性として、テクストの理解において参照されなくてはならない資料(実際の作者の意図に関わる資料)が存在する。

いまや(やっと!)コンパニョンの主張のおかしさは明らかになったように思います。ただし、このおかしさは、コンパニョンの主張の内部的な矛盾を指摘したものではありません。そのかわりに私は、あの壁画の思考実験によって、ある場合においてコンパニョンの主張がふつうのひとにとっても受け入れがたいほど奇妙な帰結をもたらすことを示したのでした。
 いっぽう反意図主義者は、テクストの理解のためにはある資料を必ず参照しなければならない、ということは認めません。首尾一貫性や複雑さといった、興味深さの基準を満たすような解釈が生まれるようならば、作者の基本的な属性(日本人であるとか、人間であるとか)さえ無視してよいのですし、原理的には、横書きの日本語で書かれたテクストを縦に読んだり(縦読み)、日本語として読まずに何らかの絵画として解釈したってかまいません(アスキーアート)。逆に言えば、絵画(の文字のように読める部分)を文学作品として読んだり、雲の形を見て神のお告げを読み取ったり、他人の言動から神のお告げを読み取ったりしたってよいのです。もちろん、絵画や雲の形や他人の言動は、ふつうのテクスト論者に言わせればテクストではない(構文論的に同定できないので)ということになるでしょうが、呼びかたとしては広義のテクストと呼んでも差し支えないと思います。*1
 「実用論的汎反意図主義」の内容をもう一度はっきりさせて、この項を終えたいと思います。

「実用論的汎反意図主義」
(a)意図の帰属はつねに虚構であり,かつ,(b)恣意的(べつに虚構の語り手に帰属させてもいい);(c)ただ,実際には「プラグマティックな原因」により(特定の)人間に帰属させていることが多い.
(d)したがって、「プラグマティックな原因」が特に見当たらない場合、どんな表象でも自由に解釈してよい。

このような主張は、optical_frogさんの指摘しておられた(a)(b)の自明さを考えれば、それほど意義がないものかもしれません。しかし、汎反意図主義者による自由な解釈を、「それは実際の作者の意図ではなかった」と述べれば棄却できると考えている人々(意図主義者)がいるかぎり、この主張は繰り返し主張される意義があると考えます。

optical_frogさんの対案について 無限後退

 さて、「実用論的汎反意図主義」は、ともかくつねに作者の意図は考慮しなくてよい、と述べているわけですが、これに異を唱えるのがoptical_frogさんの対案です。この対案によれば、テクスト解釈に関して、作者の意図を考慮しなくてはならない段階がひとつあることになります:

  • 虚構のテキストとして受け取るかどうかを聞き手/読み手が選択する局面では,作者の意図が考慮される.

 あるテクストがいったん虚構のテクストであるとされれば、その話し手をどう設定するも自由ではあるが、そもそもそのテクストを虚構のテクストとして受け取るときには、テクストの発信者の意図がじじつ考慮されている、というわけですね。
 では、optical_frogさんの対案に則って考えてみましょう。ここで言うテクストの発信者の意図、optical_frogさんによれば「作者Aの意図I2(「俺」を作者Aに同定せよ/虚構の語り手Nに同定せよ)」は、どこにこめられているのでしょうか?

「俺のことならイジュメイルと呼んでくれ」

というテクスト自体には、optical_frogさんの確認どおり、そのような意図はこめられていません。ということは、このテクストが発信された(そして受信された)状況、すなわち発話状況*2に、そのような意図がこめられていることになります。具体的な発話状況を考えてみましょう:

発話状況1:
読んでいる本に、「俺のことならイジュメイルと呼んでくれ」という文が出てきた。

この発話状況1では、「その文が本に出てきた」という発話状況から、おそらく“「俺」を虚構の語り手Nに同定せよ”という作者Aの意図を読み取ることになるでしょうし、

発話状況2:
バーで飲んでいたら、隣の男がなにかを紙に書きつけて首からさげた。それは「俺のことならイジュメイルと呼んでくれ」という文だった。

この発話状況2では、「その文が男の名札に書いてある」という発話状況から、おそらく“「俺」を作者Aに同定せよ”という作者Aの意図を読み取ることになるでしょう。
 ここに私は無限後退の匂いを嗅ぎ取ります。それはこういうことです。
 なぜ、「その文が本に出てきた」という発話状況から、“「俺」を虚構の語り手Nに同定せよ”という作者の意図を読み取ることになるのかといえば、「その文を本のなかで出す」という発話状況を決定した作者Aの意図“本のなかの文は虚構として扱え”を読み取ったからです。でも、「その文を本のなかで出す」という発話状況から“本のなかの文は虚構として扱え”という意図を読み取らなくてはならない論理的な必然性はありません。ではなぜ「その文を本のなかで出す」という発話状況から“本のなかの文は虚構として扱え”という意図を読み取ったのかといえば、それは、「文を本のなかで出す」という行為が、本のなかで出された文は虚構のものとして扱う社会のなかでなされたからです。そうでない状況では、本のなかの文でも真に受けられてしまうかもしれません。以上をまとめると次のようになります。

あるテクストを虚構のテクストであると受け取るかどうかについて、

  • テクストにこめられた作者の意図:テクストが提示された発話状況によって理解される
  • 発話状況にこめられた作者の意図:発話状況が提示された状況によって解釈される

2つめの状況は、発話状況の発話状況です(2階の発話状況と呼べるでしょうか)。同様にして、次々に階梯を登っていくことができるように思います。この階梯の上昇を、実用論的な理由によって止めることはできません。なぜなら、その“実用論的な理由”というのが、まさにいま問題となっている高階の発話状況そのものだからです。
 いっぽう、作者の意図を考慮しない汎反意図主義では、あるテクストを虚構のテクストであると受け取るかどうかについて、実用論的理由で決めることができます。ここで言う実用論的理由とは、作者の意図に関わるものでないからです――たとえば虚構のテクストであると受け取ると作者以外のだれかに殴られて痛い思いをしそうなのであれば、汎反意図主義者はテクストを真に受けようとするでしょう。そういうわけで、汎反意図主義は無限後退に陥らずにすみます。
 無限後退そのものは決定的な難点ではありませんが、無限後退なしですませられる立場があるならば、そちらをとるべきではないでしょうか。


 この無限後退の容疑は、“コンテクストもテクストだよな”という発想から生まれたもので、まだアイデアとして固まっていません*3。1階の発話状況と2階の発話状況との関係については示せたと思いますが、n階の発話状況とn+1階の発話状況との関係がはっきり示せていないので(ちゃんと階梯を登りつづけられるのか?)、まだ帰納法が発動しないからです。また、この容疑がうまくいくとして、その容疑を汎反意図主義が免れるのかどうかもはっきりしていません。しかしともかく、私がもとの記事でコンパニョンについて触れたときには、このような論点は頭にありませんでした。optical_frogさんの指摘によって、議論は新たな段階に達したように思います。

*1:そしてここに、前回ちらっと述べた「テクストの同一性をいかにして確認するかという問題」が生じてきます。

*2:この用語を使うのが言語学的にいって正しいかどうかわからないのですが。

*3:たぶんこのアイデアは、そんなに独創的でもない気がします。デリダが言っているような。