あなたのkugyoを埋葬する

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作品に留保なき存在論的地位の肯定を!


木曜日。畏敬の念を感じ得ない - Liber Violaceus Book IV
 id:manthanoさんこんにちは、先日はありがとうございました。勉強会ホストとして勝手ながら2つの疑問にお答えいたします。

  • 行為が作品なら、そこに登場人物などいるのか?

 これについては、たとえテクストが作品であったとしても、文字列に登場人物などいないですから、登場人物はテクスト理解のなかに登場するのだ、と考えるべきだと思います。つまり、「この文字列は“エマ・ウッドハウスは、美人でかしこくて金持ちである”という命題を意味するのだな」などと理解するわけです。この命題が風刺として提出されているのかどうか、エマは何を象徴する人物であるのかなど、作品の解釈にうつるのはこのあとですね。
 さらに、それでは登場人物はどこかに存在するのか、ということを考えると、これはCurrieは(論文中では)触れていませんが、テクスト理解中に示されたような命題がすべて成り立つ可能世界にいる、というのが考えられます。

  • 本を読んでも作品を読んだことにならないのでは?

 作品は行為だとしても、作品を受容するにはauthorの制作行為の全体を監視する必要があるとは、Currieも言わないはずです。おそらく、本を読むときには、その読者はテクストだけでなく、それの制作行為についての知識をも、自らが持ち合わせているぶんだけ*1“読んで”(つまり、想起して)いるのだ、というようにCurrieは答えるでしょう。ですから、我々は本(本はまあテクストですよね)を読むことで、やはり作品を読んだことになるわけです。


 このほかに私がいま気になっているのは、制作行為についての知識といっても、読者によって真偽が異なる場合があるかもしれない、ということです。
 たとえば作者が中国人であることは、制作行為についての知識に含まれるでしょうが、読者が日本人であった場合、これは

  • 作者は私にとって異国人である。

という知識になっている場合がありえます。これは読者が中国人であった場合には偽ですから、制作行為についての知識とひとくちに言っても、それは読者に相対的であるかもしれません。
 もちろん、

  • 作者は中国人である。

という形に変形して、知識から“私”“いま”“ここ”などの指標詞を排除すればいいはずですが、それは読みの実態に合っていない気がします。
 それじゃどうしたらいいかというと、私の持論*2によればこうした指標詞(とくに“私”)を組み入れた読みは、じつは芸術作品の受容ではなくコミュニケーションを志向しているのだ、となるので問題なさそうですが、ほかに解決のしかたがあるかもしれません。知識の問題ですから、ぶ、文脈主義とか!?


(追記部分 2008/8/21)
 いや、上記の問題はそれこそCurrie論文の路線で解決可能か? ちょっとちゃんと全訳して考えてみます。たぶん9月の初旬になりますか、私が現実逃避をするようなら、もっと早くなるかもしれません。
(追記ここまで)
 以上です。


 Currie論文の提案する作品の同定法は2つあり、作品を制作行為と考える以外にもうひとつ、作品をそれ以上還元できない独立した存在論的地位を持つもの、として受け入れる方法があります。しかし存在者を無為に種的に増やすのはよい説とは言えないので、やはり作品とは制作行為であるということになるでしょう。

*1:ここが急所かもしれません。持ち合わせた背景知識の多い読者のほうが正しい読みに近づくと、暗に前提されているかも。

*2:「わたし」間の魂的なものの不在が可能世界を使って示せるかも(考えちゅう) - kugyoを埋葬する