あなたのkugyoを埋葬する

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高階のふりをする

 『現代アートの哲学 (哲学教科書シリーズ)』を使って芸術の哲学を概観する勉強会をやってきた。「スポーツと芸術との違いについて勉強会をやりたい」ということを言っていた友人がいたので*1、少しは参考になったといえよう。参考図書もすぐに推薦してあげればよかった。
 勉強会のレジュメはあまりにも各章各節の要約まんますぎるのでちょっとためらうが、後日サークルHPにのっけてもらうかもしんない。


 で、『現代アートの哲学 (哲学教科書シリーズ)』中で「『殴る』と『殴るふりをする』とは違っていて、『行為Aのふりをする』は独自の行為なのだ」というぐあいに西村の説が述べられていて、少し考えた。
 「殴る」と「殴るふりをする」とが違う行為だというのはいい。しかし、「行為Aのふりをする」がすべて独自の行為となっている、というのはほんとうだろうか。そうでなければ、この西村の説はサールの擬装主張説への反論として失敗してしまう。逆に、もし「行為Aのふりをする」が「行為Aをやめる」みたいにいくらでも高階に使えるものなら、独自の行為として認めてもよかろう。
 さて、こういうときには、「行為Aのふりをする」の行為Aに「行為Aのふりをする」を代入するのがテクニックじゃねえかと思ったので、さっそく代入してみる。すると「行為Aのふりをするふりをする」ということになる。これは果たして独自の行為だろうか。
 とりあえず、行為Aとして「殴る」を入れてみよう。すると「殴るふりをするふりをする」を考えることになるが、これは、単に「殴る」ことにならないだろうか。また、そうでない場合には、けっきょく「殴るふりをする」と同じ行為なのではないだろうか。
 このことを考えるために、「行為Aのふりをする」を、「行為Aとよく似た行為をする」であると分析してみよう。というのも、「行為Aのふりをする」という行為をうまく実行できたかどうかは、どれだけ行為Aに似ていたか、によって評価されるからだ。
 すると、「殴るふりをするふりをする」は、「殴るのとよく似た行為とよく似た行為をする」と分析できるから、やはり、

  • 殴る
  • 殴るのと似た行為に似た行為をする

のどちらかであろう。しかし、「殴るのと似た行為に似た行為」というのは、いずれにしろ殴るのと似た行為ではないだろうか。すると、やはり「行為Aに似た行為に似た行為」なる独自の行為は存在しないことになるから、「行為Aのふりをする」は独自の行為ではなかったことになるのではないか。


 ……と、カレーを食うまえは考えていたのだけど、食後に勉強会を再開したら、友人につっこまれてあやまちに気が付いた。
 ヒントは、「芸能人に似た行為に似た行為」のような例を考えるところにある。芸能人は行為ではないから、正確には「芸能人がするだろうような行為に似た行為に似た行為」なわけだが、これはよく考えてみるとモノマネのモノマネである。そしてこれはもとのモノマネとは明らかに違う。美川憲一のモノマネをしているコロッケのモノマネは、美川憲一でもないし、美川憲一のモノマネでもない。
 もちろん、結果としてはその行為は、美川憲一がするだろうような行為になっているかもしれないが、「モノマネのモノマネ」はあくまでもコロッケのモノマネであるところに価値があるのであって、美川憲一のモノマネと見られたり美川憲一と取り違えられたりしてしまっては、その行為は失敗である。
 というわけで「殴る」に戻ると、「殴るふりをするふりをする」は、結果としては殴る場合もあるだろうが、その場合は「殴るふりをする」と見せかけて殴る、つまり本当は殴らないかのようなフェイントを入れてから殴るはずだから、けっきょくこれはただの「殴る」とは違う、独自の行為なのだ。


 どこでミスしたか、お気づきのかたははじめからお気づきだっただろうが、「行為Aのふりをする」という行為をうまく実行できたかどうかは、どれだけ行為Aに似ていたか、によってのみ評価されるわけではない、したがって「行為Aのふりをする」の分析をあやまったのが原因である。「行為Aのふりをする」が成功するための条件には、行為Aに似ていることだけでなく、行為Aそのものではないことも含まれる。つまり、「行為Aのふりをする」は、「行為Aとよく似てはいるが、異なる行為をする」と分析されるべきだったのだ。

  • 殴るのと似た行為に似た行為をする

という行為が成功するためには、その行為が「殴るのと似た行為」そのものではないことが必要だったのだ。
 そして、「行為Aのふりをするふりをする」ことが、結果的に「行為A」と同様の結果になるとしても、それらを同一視することはレベルを間違っており、こちらは「kugyoを対象に《恐怖》をプレイする」を「kugyoを埋葬する」と同一視してしまうたぐいのあやまりなのである。ざんねんだったな、kugyoは対戦相手の呪文や能力の対象になったとき、反転しpubkugyoとなる! pubkugyoは破壊されない!


 この話はレジュメには書かなかったので、ここに書き残しておくことにしよう。

*1:ただその問いだけではネタが足りないだろうな。ゲームの定義よりは狭いけど、スポーツの定義も難しいぜ、あるいは、簡単すぎるぜ。ただたとえばスポーツ倫理学ではそういうことも考えるのだけど。スポーツ倫理学の現場を垣間見たおれより。