あなたのkugyoを埋葬する

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Literary Valueについて、現時点での考え

 Literary Valueをどう訳すか、これはおれがうっかりしていたところで、たぶん「文学の価値」ではなく、「文学的価値」としなくてはならないんだろう。つまり、文学作品には文学的価値とそれ以外の価値(道具的価値とか?)とがあるわけだ。
 いや、でも、道具的でない価値なんてあるの? 内在的価値? そんなものがあるなんて不用意には信じられないなあ。というか、内在的価値を認めてしまうのなら、そこで話は終わってしまうので、文学的価値も道具的価値ではあることにしたほうがよいだろう。というわけで、ここから立場はおそらく2つに分かれて、文学的価値とは

  • Artistic Truthを与えてくれる(認知主義cognitivism)
  • 快楽を与えてくれる(情動主義emotivism)

のどちらか、であるのだろう。なお、西村清和はどうも認知主義のことを「有用性説」と呼んでいるようだけど、上の軽い分析に従えば、快楽を与えてくれることだってそれがゆえに有用だとは言いうるだろうから、「有用性説」なる名づけかたは不適当だと思う。
 さて、ここで認知主義と情動主義とをどううまく分けるかが重要だ。というか、上の2定義がそもそも怪しい。認知主義と情動主義とというのは、どちらもおそらくメタ倫理学からきているのだけど、メタ倫理学でいう情動主義というのは、「価値判断をするというのは、感情表現を行うことのことである」という立場だったはず。すると、「(知識ではなく)快楽を与えてくれる(から芸術作品は有用だ)」という立場を、認知主義に対して情動主義と言ってよいかどうかは、不勉強な私にとっては判断をつけづらい。


 そこで、改めて対立軸を設定するならば、

  • 認知主義(芸術作品はArtistic Truthを与えてくれるがゆえに、価値がある)
  • 快楽説(芸術作品はArtistic Pleasureを与えてくれるがゆえに、価値がある)

ということになるだろう。ところで、認知主義と情動主義とは、独特のTruthを与えるか与えないか、という対立のしかたをしていた。しかし、上記の認知主義と快楽説ととの対立は、与えてくれるものの種類でしかない。したがって、このままでは網羅的な分類になっていないおそれがある。たとえば、追加の立場として、

  • 媒体説(芸術作品はArtisticでないTruthを広報してくれるがゆえに、価値がある)

というのが考えられよう。ArtisticでないTruthには、たとえば、世界認識への新たな展望、などが含まれるだろう(グッドマンの世界=ヴァージョン制作のように)。


 さて、西村は『現代アートの哲学』で、芸術的価値をもう少し詳しく分析して、

(前略)作品経験の本質は、たんなる美的特性の経験にとどまらず、それ以上に、作品が直面する現実についての肯定や否定、真や偽、また現実がいかにあるべきかという倫理にかかわる認識や主張にあるといえるのではないか。


(西村清和『現代アートの哲学』p.73)

という問いを立て、それに対して次のように答える。

だがすでに見たように、ターナーの絵を見ることによってわれわれが経験するのは、さしあたっては、この一枚の絵が可能にする「あらたな絵画的視覚経験」であって、それ以上ではなかった。かりにこの絵画経験が、それ以後、わたしが現実世界を経験するさいのあらたなパラダイムをみちびくことがあるとしても、それはあくまで、美的経験のあとにつづいて、わたしという一個人、あるいはわたしが帰属する共同体にたまたま生じた経験である。論理的にいうかぎり、作品そのものが、そのようなあらたな現実経験への指示を直接にあたえるわけでも、またつねにあたえるわけでもない、つまり絵画経験の本質がそこにあるわけではないといわなければならない。


(西村清和『現代アートの哲学』p.78)

 つまり、美的経験とそのあとに続く経験(真理の獲得)とを分けるべし、というわけだ。そして、その美的経験とは、西村に従えば、絵画的視覚経験であり、すなわち快楽を獲得する経験である、というわけだ(前掲書p.156)。西村は快楽説をとっているといえよう。


 さて、私が以前のエントリ(「虚構と現実とは区別するだろ、存在論的に考えて… - kugyoを埋葬する」)で、「美的経験」がなんだか分からない、と書いたのは、上で見たように誤りである。西村はそれを快楽であるとちゃんと規定しているんだから。
 今回問題にしたいのは、「そのあとに続く経験」も、芸術的価値に含めていいんじゃないの? という点である。西村が言うように、美的経験と真理の獲得とを分けることはできるだろうが、だからといって、真理の獲得を芸術的価値に含めてはならないかといえば、そこまでは言えないだろう。
 要するに私の立場は、芸術作品は認知的にもどうでもよくはないし、もちろん快楽も与えてくれるよ、というものである。この方針に対する反駁、とくに認知主義的側面への反駁が、現在のところ3つある。

  • なぜ、芸術作品に描かれたことから引き出せる命題が、現実の真理に対応すると言えるのか? 現実の真理は、現実世界を調べてみなくては分からないのでは?(Stolnizの反論1)
  • 心理学がふつう扱わないような特殊な状況における人間の心理に関する真理を芸術作品が与えてくれるとしても、そんな真理はごく瑣末な価値しか持たないのではないか?(Stolnizの反論2)
  • 芸術作品に描かれたことから、なぜある命題を自動的に引き出せるのか? 芸術作品じたいがある命題を主張しているのではなく、解釈者が任意に命題を引き出している以上、それは芸術作品じたいの価値とは言えないのでは?(西村の反論)

 じつは、以上3つの反論に対して、西村にはStolnizの論考をもとに、Stolnizには西村の論考をもとに応答する作戦を、いま考えついているのだが、これ以降はこのブログではおあずけにしておこう。勉強会のレジュメにするからね。


 ……と思ったのだけど、id:k11さんの記事に少し共鳴しておきます。
 id:k11さんは「2008-09-17 - http://d.hatena.ne.jp/k11/」で、

個別の芸術作品はそれ自体でなにかを伝えたり教えたりできず、それが受容者によってさまざまに分解されさまざまなものと連結されてはじめてなんらかの意味が生まれると思っています。

と書いてらっしゃいますが、それはそのとおりで、そもそも芸術作品に命題が含まれるという立場、もっと言うならば、命題でないものに命題が含まれるという立場そのものが、奇妙でわけがわからないのです(カテゴリ錯誤を起こしている)。
 このカテゴリ錯誤は、Stolnizがやったように、科学的真理のような別の真理を、芸術的真理と比較してみると、はっきり明らかになります。やってみましょう。
 科学的真理というのは、たとえば「逆二乗則」だの「光の性質」だのといったもので、こちらは確かに命題の形で書きあらわすことができます。では、その科学的真理というのは、なにから得られたものでしょうか?
 教科書から得たよ、というひとがいるかもしれません。しかし、教科書じたいから、科学的真理が発見されたわけではありません。教科書はあくまでも、科学的真理を広報する(そしてあなたがたに認知的に受け入れさせ、科学的知識とさせる)媒体にすぎませんから、教科書は科学的真理を含むがゆえに価値がある、という言いかたは、少々おかしいわけです。
 すると、たとえば光の性質についていえば、その性質を明らかにした実験が、科学的真理を含んでいるのでしょうか? しかし、実験をいくら詳細に見つめても、そこにあるのは科学者の行為であって、命題ではありません。そこにもやはり科学的真理は含まれないのです。
 正確に言うならば、科学的真理は、実験結果(それには実験手順も含まれるでしょう)から解釈者が引き出した命題なのです。さあ、すると、芸術作品についても、その解釈者が引き出した命題を、芸術的真理Artisitc Truthと呼んで、なにがいけないのでしょうか? そうした真理は、その実験結果や芸術作品がなければ、明らかにならなかった真理なのです。
 芸術作品は科学的実験データのようなものであって、それじたいが何か命題を表している、というのは、カテゴリ錯誤です(西村もほぼ同様のことを論じていましたね)。あるいは、科学的データは命題の省略形だ(15℃:340mなるデータは、「摂氏15度の空気中では、音速は毎秒340mである」という文の省略形だ)というのなら、それは西村やBeardsleyが言ったような「霊媒師のせきばらい」です。データと文とを対応させる取り決め(「わたしがせきばらいをしたら、それが霊体が出現する合図だ」)があらかじめあるのでなければ、そのような省略は成り立ちません。そして、そのような取り決めを認めてよいのであれば、芸術作品をも、何らかの文の省略形だ、と言ってよいでしょう(西村が議論していることです)。
 つまり、上で述べた「西村の反論」に対する、私の再反論はこうです。

解釈者が引き出した命題を芸術作品じたいの価値と認めないならば、“実験結果の科学的価値”などといった概念もまた、意義をなさなくなる。しかし、後者の言いかたに何かおかしなところがあるとは思われない。それゆえ、芸術作品から解釈者が引き出したような命題も、芸術作品じたいの持つ真理=価値と認めるべきだ。あるいは、そのような“命題引き出させ性”を価値として認めれば、それは芸術作品じたいの価値といってよいのではないか。


 あっ、あと、id:k11さんは「芸術行為とその結果生じる芸術作品を分離する」ことを考えてらっしゃるのか……これは早急にGregory Curry,"Work and Text"を訳さねば!


 ところで、将棋や囲碁といった2人有限確定完全情報ゲームの必勝法というのは、その競技のプロ2人と同時に対戦することである。プロAとはこちら後手で、プロBとはこちら先手で対戦し、プロBとの対戦ではプロAに指された手を、プロAとの対戦ではプロBに指された手を、それぞれまねていけば、実質的に対戦しているのはプロAとBとの2人組なので、どちらかが勝ち、どちらかは負ける(引き分けもあるが)。結果として、どちらかのプロには必ず負けない、ということになるわけだ。
 今回予定している勉強会は、それを地で行く議論になろう(いや、おれはプロAにかち、かつ、プロBに勝つけどね*1)。そして、命題とはなんであるかについてなど、言語哲学的な素養も必要になってくるであろうな。ほんと、価値論は地獄だぜ。

*1:さあ! これが今日のギャグだぞう!