あなたのkugyoを埋葬する

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透明の付箋紙はやたらと高い

 学業に金を投入する気のある人間なので、付箋紙として「MemoGraph」なる商品を買ってみた。これは透明の付箋紙で、鉛筆でも上に書き込める(はじめ油性ペンでないとだめかと危惧していた、それならセロハンテープと変わらない)。しかし、1000円近くするのはなぜだろう、無印良品でも似たような商品を売っているが、やたらと高い。
 たぶん、付箋紙の需要というのは、紙1枚にあまり多くの情報が詰まってないものに対する利用なんだろう。だからインデックスとして付箋紙を貼っておけばそれでじゅうぶんというわけだ。紙面がぎっしりと詰まっているために1枚の紙のどのあたりに情報があるのかまで把握しなくてはならず、あまつさえ書き込みもしなくてはならないような利用のしかたというのは、あまり想定されてないのではないか。


 再三言っていることだが、付箋紙を借りた本に貼るのはよくない、付着した糊からカビが生えるから。ね。


 最近買った本のリスト。

線が顔になるとき―バンドデシネとグラフィックアート

線が顔になるとき―バンドデシネとグラフィックアート

ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち

ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち

 顔から考える芸術の諸相、というのはいけるかもしれない。どのくらいゲージをためたらレヴィナスさんを召喚できるだろうか?
 こんな分析も。

 本書の観点から、もっとも興味深いポケモンは、一五一匹いるうちの約二○匹、体と顔を区別できないタイプのポケモンである。実際、このタイプは、球状あるいは楕円形で、そのほとんどがさまざまな付属物(足、手、翼、ヒレ、触手、ハサミ、尻尾)を付けている。だが、「プリン」、「コンパン」、「ニョロモ」、「ウツドン」、「ゴース」あるいは「ドガース」は、まるであの有名なバッジ「ハッピーフェイス」が突然、命を授かったかのように、顔と体が一体となった形態、顔が全身を表す形態として識別される。


ティエリ・グルンステン『線が顔になるとき―バンドデシネとグラフィックアート』、pp.89-90。

 ウツドン! なるほどねえ。
 図25 「ポケモン」も付いている。しかし、図中のビリリダママルマインが、ゲームではなくアニメからとられた絵であるのは少々いただけない。引用部分に先立つ箇所で、話題になっているのがゲームのほうであることがはっきりしているからだ。

 ポケモンは小さい。あるいはそのように見える。ポケモンの立案者は、「ピッピ」が六○センチで「カイロス」は一メートル五○センチだと思わせようとするが、私たちはどれもがほとんど同じような大きさで、彼らが活躍するゲーム機などのオモチャのように、手やポケットにすっぽりおさまるサイズに縮まっていると思わず想像してしまう。


ティエリ・グルンステン『線が顔になるとき―バンドデシネとグラフィックアート』、p.86。

 目と口とが強調されて……といった話など、日本でのマンガ論では見飽きた題材にも触れているが、図版も多いし、ヨーロッパの1753年の本のマンガっぽい部分を抜いてきたところ*1も見て、買うことを決めました。

*1:本文p.15の、ウィリアム・ホガース『美の分析』からの抜粋部分、なんともとは銅版画だぜ。