あなたのkugyoを埋葬する

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ポニョ、東北哲学会、すき!

 最近入手した文献。

  • 清塚邦彦 (2007c) “写真とメディア:K・L・ウォルトンの写真論を手がかりに”、東北哲学会年報 (2007) 23, pp. 81-92.

 この文献は下記URLより入手した。
http://www.sal.tohoku.ac.jp/philosophy/TPS/taikai/56kiyozuka.pdf
 ただ、これのさらに上層ページ、http://www.sal.tohoku.ac.jp/philosophy/TPS/taikai/56.htmlによれば、このpdfファイルは未定稿だそうであるから、じっさいには東北哲学会年報23号を入手して比較する必要があろうな。


 また、JSTOR経由で、

  • Kendall L. Walton, "How Marvelous! Toward a Theory of Aesthetic Value", The Journal of Aesthetics and Art Criticism, Vol. 51, No. 3(1993), pp. 499-510.
  • Kendall L. Walton, "Transparent Pictures: On the Nature of Photographic Realism(abstract)", Noûs, Vol. 18, No. 1(1984), pp. 67-72.

も入手した。


 ちょっとばかしマニアックなテーマで哲学の研究をしようと思ったら、書籍のみならず論文にも手を出したくなるはずなんで、哲学を勉強しているひとはこうやってがんがん文献名を提示してくれると助かるなあ。もちろん、文献収集自体がその収集者の努力のたまものではあるけれどさ。
 大学に籍がないとこういうデータベースが使えなくなるので、そのためだけに入院しようかと思っているぐらい助かっている。


 や、でも、芸術について哲学的に考えたいってのはそんなにマニアックなテーマかね。清塚氏の一連の論文を見ていくと特にそう思うけど、言語哲学やってたら虚構の問題について考えたくなるのがあたりまえじゃないかしら。たとえばさ、よくある例をちょっと思いつきで書くけど、

 ニクソンが存在したとしよう。このとき、ニクソンニクソンではなかったということはありうるだろうか? ニクソンが、「ニクソン」という名前ではなかった、ということはありうるかもしれない。だがそれは、ニクソンニクソンではなかったということとは違う。

なんてことがらをまともに考えはじめた人間が、可能世界とか虚構とかについて考えずにすますことができるとはとうてい思えない。(上記の文を友人に朗読してやったら大笑いされた。)で、そこから芸術の哲学まではあと数歩だと思うのだけど。もっとみんなPoAPoAしようぜ。