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お前のドリルで…(てん)を衝け!

テストパイロットよりの手紙

明日の秋葉原とゼロアカ以外まとめ。 - 左隣のインターフェース


安倉儀たたたさん、こんにちは。私はほかにも安倉儀たたたさんにコンタクトするすべがあるのを知っていますが(「S.E.」に掲載された主幹メアドとか)、今回は安倉儀たたたさんの言説に興味を持って、こうしてトラックバックを送ることにしました。id:leftside_3は「左隣のラスプーチン」様の共用アカウントなのでしょうから、少し利便性は落ちますが、安倉儀たたたさんと呼ばせてください。


 さて安倉儀たたたさんは上記のエントリーで、

ゼロアカについて言えば、


(中略)


1. 優先的にブースが割り当てられ
2. 講談社から金もらって「同人誌」をつくってる。
 という二点に関しては非難されてもしかたがないんじゃないでしょうか。

と書いておいでです*1。この点が、安倉儀たたたさんの言説に関して、あるだいじな意義を持つように思います。今回はこれについて論じさせてください。だから、これは読者の期待を裏切るのかもしれないけど、私のこのエントリーは、文学フリマゼロアカ道場講談社についてのものではありません。文学フリマ前夜の、ほぼ完全に時期の遅れた、「左隣のラスプーチン」様の同人誌「S.E. vol.2」の……いやおそらく「S.E. vol.1」の宣伝です。改めてこんにちは、「S.E. vol.1」収録、"Noising article of GAMES 1/3 「戦争の温度から―スパロボ戦争論―」"の執筆者、安倉儀たたたさん。


 私が不可解だったのは、なぜ引用した2点が、ゼロアカ道場への参加者たち(以下「道場生」、なぜってこの2点にいわゆる「道場破り」たちは抵触しませんから)への非難として機能するのか、という点です。

  • 優先的にブースが割り当てられること
  • 講談社から金をもらって「同人誌」を作ること

この2点を指摘することが、道場生への非難として機能する、と安倉儀たたたさんが判断されたということは、どういうことなのか。私は2つの理由を(排他的でない)候補として考えています。
 なお、いちおう確認しておきますが、引用した部分は「ゼロアカ」という企画に対しての非難ではなく、道場生に対しての非難と読まれるべきです。「同人誌」をつくってる、のは、企画ではなく道場生だからです。以下の論考では、「ゼロアカ道場」という企画は、「講談社」に含まれるものとしてお読みください。

同人誌であるのはどういうものか

 1つめは、道場生が作るものが同人誌である、ということと、道場生が作るものは講談社からいくばくかの金をもらって作るものである、ということとが、相容れないからではないか、というものです。いやしくも同人誌を名乗るならば、「同人」でない企業から資金提供を受けるのは、同人誌精神に反するではないか、という点です。
 でも、これがたとえば、大学からの資金提供だったら、それは同人誌製作に反しないのでしょうか。私がここで資金提供と言っているのは、大学から奨学金をもらい、その一部を同人誌作成にあてる、という行為です。学生サークルが多数参加する今回の文学フリマでも、そういう同人はいくつかあると想像します(そして、もし自分の同人誌が何らかの意味で「奨学」されるに値すると考えるなら、彼らの行為こそ奨学金の正しい使い道です)。ここでは資金の提供元は大学です。
 一銭もかけずに同人誌を作ることは、おそらく非常にまれなことです(でもそういう同人が文学フリマに現れることを私は望みます)。ほとんどどの同人も、何らかの形で手に入れた資金を、同人誌作成に使っているはずです。もし安倉儀たたたさんの言いたいのがこういう話なのであれば、道場生を非難することはできないはずです。彼らはゼロアカ道場に参加するという労働を行い、講談社からいくばくかの資金をせしめ、それを同人誌作成に使った。これは私が講談社でバイトしてためた金で同人誌を作るのと変わりありません。
 もちろん、安倉儀たたたさんは、こんなむちゃくちゃな話はしていないはずです。(もし私のあげた1点めが安倉儀たたたさんの考える非難理由であるのなら)安倉儀たたたさんがおっしゃりたいだろうことは、「同人誌を作る用途に限定して資本を提供される」ことが、同人誌精神に反する、ということでしょう。このような形の資金提供を受けた同人は、たしかに道場生以外にはなさそうです……いや、ほんとうにそうでしょうか。私が母親に「同人誌を作るから金をくれ」と言ってせしめた小遣いで同人誌を作ったら、それは同人誌精神に反するのでしょうか。そんなことはありますまい。
 いや、もちろん、これもまだ、私のふざけすぎというものでしょう。安倉儀たたたさんのおっしゃりたいのは、「企業から、同人誌を作る用途に限定して、資本を提供される」ことなのでしょう。企業が直接に関わった時点で、それは同人誌とは呼べない。安倉儀たたたさんのエントリーの引用を加えれば、道場生は

早稲田文学」とか「法政文芸」と同じ「企業枠」扱い

であって、かつ「早稲田文学」などと違い「同人誌」を名乗っている。これが安倉儀たたたさんの論点のはずです。
 ところで、では彼らの作ったものは、どう名乗られるべきなのでしょうか。「誌」であることはおそらく間違いないので(私は逆に、他の多くの同人が文学フリマで売るのは「誌」ではないと考えますが)、問題は「同人」でしょう。「同人」でない「誌」、思い浮かぶのは「商業誌」です。彼らの作ったものは「商業誌」と名乗られるべきだ、おそらくは「早稲田文学」などが迫られたらそう応対するだろうのと同じように、というのが、安倉儀たたたさんの主張だと思います。
 「商業」というとき、まず思い浮かぶのはそのものの売り手と買い手とがいること、金銭のやりとりのことですが、それならほとんどどの同人も同じ条件です。問題はやはり、企業が文学フリマの会場に、目に見える形でやってきていること、その同人の意思決定に関与していること、なのだと思います。講談社群像新人賞をとり、その賞金で作った同人誌を「講談社群像新人賞受賞者の同人誌!」と銘打って販売しても、つまり「講談社」という社名をいくら全面に出しても、その同人誌の制作行為や販売行為は講談社の意思とは何のかかわりもありません。ところが道場生の場合だけには、さまざまな点で講談社という企業が意思決定に関与している。これは「同人」ではないだろう、というわけです。
 長くなりましたが、これは問題に向かって「同人っていう言葉の使い方のズレが原因だ」と言いたくなかったためです。こういう言いかたは、使用できる字数が100字とかに制限されている場所でならともかく、そうでない場所では、「ではそのズレとはいったい何なのか」を説明していない以上、問題の解決にほとんど寄与しません。せいぜい問題の所在地を明らかにするぐらいでしょうが、今回の場合、所在地はほぼ明らかだと考えています。
 おそらく今回、講談社のほうでは、道場生の同人誌制作について自らが意思決定をしているとは考えておらず、道場生に自由に作らせていると考えている。ところが安倉儀たたたさんはその意思決定を見ている。ここにこそ断層があるのです。
 ひとつ、注意すべきことがあります。いま私は、講談社が意思決定をしている、講談社には意思がある、というように書きました。安倉儀たたたさんに言わせれば、おそらくこれは隠喩的な、ゲーム理論的な、そして私のこの文脈ではミスリーディングな書きかた、ということになるはずです。だって講談社には意思なんてないからです*2
 おそらく安倉儀たたたさんは、講談社文学フリマ(の主催団体の文学フリマ事務局)を、意思を持つ主体と捉えているのではなく、「環境」と捉えているのではないでしょうか。私がそう考える根拠は、安倉儀たたたさんが今回の問題を取り上げる中で、非難の矛先を道場生に向けているいっぽう、講談社に対しては、

講談社じゃあしょうがない。

とだけ述べている、ということにあります。
 非難とは、その非難されている当のものが主体を持つからこそ行える行為です。非難とは主体に対してしか行えないと言ってもよい。たとえば(「環境」であるものの代表として例にしますが)電磁気力に対して非難をするというのは、文字通りにはわけがわかりません。それは当たり前で、非難とは「〜は倫理的に悪い」と述べることに他なりませんが、電磁気力は主体を持たないので、倫理的に行為するものとして扱われうる対象ではないわけです。つまり、「講談社じゃあしょうがない」という発言は、講談社を「環境」として、非難しえないものとして捉えている証だ、と考えられます。
 安倉儀たたたさんは講談社を「環境」と捉えているのではないか。さきに私は、安倉儀たたたさんの挙げた2点の非難が非難として機能する理由の候補を、2つ考えている、と述べました。この問題は、2つめの理由候補に、そして"Noising article of GAMES 1/3"にも、深く関わってくると考えます。

「環境」を装う主体

 安倉儀たたたさんの挙げた2点の非難が非難として機能する理由として私が考える候補の2つめは、「他の同人と比して不公平だから」というものです。バックに巨大な企業がついており、資金も出るしブースも確実にとれる、という状況は、たしかに他の同人にはないものです。
 しかし、この状況は、ほんとうに不公平でしょうか。まず、第7回文学フリマについてのみ考えるならば、この不公平以上に大きな不公平があります。つまり、落選などして、ブースを出せなかった同人の存在です(この同人の存在にはあとでもう一度戻ってきます)。
 当落の抽選は公平だったのだから、当選した同人と落選した同人とは公平であり、当選が決まっていた道場生とは違うだろう、という反論があるでしょう。しかし、当落の抽選は公平である、というのは、どのように確かめるのでしょうか。
 このエントリーは文学フリマについてのものではありませんから、文学フリマ事務局がじじつ当落をランダムでないしかたで決定しているかどうかは、このエントリーの関心事ではありません。応募すれば必ず当選させるような“優良同人”扱いがあるかどうかは問題ではありません(私は文学フリマ事務局は常識的な抽選をしていると考えています)。ただ、応募書類に不備があった(たとえば、応募書類を出せなかったとか)同人は落選しているでしょう、応募していなかったのに出場できたという同人の話は寡聞にして知りませんので。
 ここではとにかく、抽選に関する事実の問題が扱いたいわけではありません。問題なのは、この2つめの理由を擁護する場合、安倉儀たたたさんが文学フリマ事務局を「公平な抽選を行うもの」と見なしていることになる、ということです。
 公平な抽選は、無作為な抽選ということになるでしょうが、無作為な抽選は、主体によっては行いえません。サイコロにしろハガキの引き抜きにしろ、必ず何らかの形で、主体ではなく「環境」の力を利用することが、無作為である、ということの本質です*3。ということは、ここで「公平な抽選を行うもの」は、「公平な選定を企図する、文学フリマ事務局という主体」と、「無作為な選定を実現する、文学フリマ事務局という「環境」」とに分けられることになります。
 さて、安倉儀たたたさんは、道場生のブース確保をどういうものであると言って非難しているのでしょうか。2つが考えられます。

  • 不公平な選定という、文学フリマ事務局という主体の企図したことによるもの
  • 無作為性に欠ける*4選定という、文学フリマ事務局という「環境」の実現したことによるもの

 さて、もし前者が正しいのなら、非難すべきは文学フリマ事務局(という主体)であるはずです。しかし、安倉儀たたたさんのエントリーにそれは見られません。安倉儀たたたさんはむしろ、文学フリマを「場」として捉え、事務局の選定も、その「場」の機能、として捉えているように思います。ということは、安倉儀たたたさんの主張しているのは後者のほうではないでしょうか。
 前節からこう考えてくると、安倉儀たたたさんは、少なくとも問題のエントリーの内部では、

と捉えているように思われてきます。前節で触れた講談社の意思決定に関する対立を書き直せば、安倉儀たたたさんは、講談社が環境として文学フリマに侵入していると見ている、ということになります。そしてその環境としての力を笠に着ているように見えるからこそ、安倉儀たたたさんは道場生を非難するのではないでしょうか。
 さて、主体(道場生)については非難を行うが、「環境」(講談社)の作用についてはそれに抗することはしない、というのは、当然のことです(電磁気力に抵抗するために電磁気力を非難するというのは無意味ですよね)。また、もし講談社が「環境」であるなら、それはたしかに主体ではないので、文学フリマのブースにいるのは極めて異質なことです。「環境」には有無を言わせぬ(非難を原理的に行えない)力があるのですから、その侵入を排除したいと考えるのも、また当然のことです。私も、この前提から帰結することには賛同します。つまり、文学フリマが「環境」であって、かつ、文学フリマという「環境」が文学フリマでない別の「環境」に変わるかもしれないとしたら、そのことには断固として抵抗します。だって私は文学フリマに行きたいのであって、文学フリマでない別のなにかに行きたいと思っているわけではないからです。
 私が問題にしているのは、安倉儀たたたさんが、講談社文学フリマを、主体でなく「環境」であると捉えているというこのこと、つまり前提です。
 同人は主体であり、企業は「環境」である、この2つを分けているのはなんでしょうか。企業は資本的に大きいが、同人は資本的に小さいという、資本の規模の問題でしょうか。そうではありますまい、もしそうなら大きな資本を持つ金持ち(たとえば講談社の社長を想定してみましょうか)は同人誌を作れない、ということになってしまいますから。組織体の規模の問題でもありますまい、10000人の同人が集まる同人団体は、それでも同人誌を作っていることには変わりないでしょう。
 社会的信用については、企業であるか同人であるかを、大きく分ける理由となるかもしれません。たとえ講談社の社長であっても、同人を作ると宣言して行動する場合と、講談社のプロジェクトであると宣言して行動する場合とでは、応対のされかたも変わると思います。企業であるかどうか、というよりは、企業を名乗るかどうかが、この場合の境界線を引くのかもしれません。
 しかし、社会的信用というのは、常にすでに配分されきってしまっているもの、というわけではありません。講談社も大日本雄弁会からスタートして、じょじょに現在の社会的地位を獲得し、ほとんど「環境」と見なされるまでに成長したのです。
 私が帰結したいのは、講談社文学フリマ事務局に、資本やプロジェクトの内容や社会的信用を用いてブースの確保を要求できたのなら、どのような同人でも、相応の(資本的、知的、時間的)コストを支払うことで、同じことができるはずだ、という結論です。少なくとも、講談社を「環境」ではなく主体と見なすかぎり、ブースの確保は不公平ではないのです。
 (講談社文学フリマを「環境」ではなく主体と見なすいまの議論を敷衍すれば、どのような社会的組織も「環境」とは呼べなくなるのではないか、という疑念が出そうです。それには、「社会的信用」ということを成り立たせるための「社会」については、少なくとも主体ではなく「環境」と呼ばなくてはならないはずだ、と応答できると思います。)
 安倉儀たたたさんが非難すべきは、道場生ではなく、あるいは、道場生だけではなく、このような事態を作り出した主体、主体としての講談社や主体としての文学フリマ事務局であろう、というのが、ここまでの結論です。彼らはじっさいには主体であるのに、「環境」であるかのごとく振る舞い、「今回の文学フリマは、専用の優先スペースがあります」という「環境」を設定してしまいました。安倉儀たたたさんは、この偽装*5をこそ衝くべきだったのです、「公平」を問題にしようとするならば。
 しかし、安倉儀たたたさんには、これはできない相談なのかもしれません。このことを次の節で分析します。

全部の範囲

 安倉儀たたたさんが、あるいはid:leftside_3がこの第七回文学フリマについて行ったことのひとつは、「ゼロアカ以外全部紹介」という企画でした。ここでは道場生(と「道場破り」と)以外のすべての同人が紹介されています。
 このことの意義は大きいし、尊敬します。しかし、と同時に、この企画には問題点があり、だからこそ安倉儀たたたさんは、講談社文学フリマを「環境」と見なさざるをえなかったのだと考えます。
 問題は、「ゼロアカ以外」ということではなく、また「紹介」という点でもありません。「全部」という点が問題なのです*6
 気に入った同人をいくつか紹介する、ということであれば、これは個人の、つまり主体の行為として受け入れられるでしょう。しかし、全部、ということになると、これは質的に異なる行為となります。なぜなら、「全部」と宣言するということは、「それ以外にはない」と宣言することでもあるからです。そしてまた、もっと大事なのは、「全部」という宣言が、「これで全部であると宣言できる」と宣言してしまっているということ、つまり、「これは「環境」である」という宣言になってしまっているということです。
 「全体性」という語の議論についても言われることですが、「全部」と宣言するということは、「全部」の範囲を設定する、ということです(「全部」に範囲などあるのか、語義矛盾ではないか、ということが、「全体性」の場合もまさに問題になっていますが)。そして、その範囲を絶対的なものとして設定するということは、「設定」*7として振舞うこと、すなわち、「環境」であろうとすることに他なりません。安倉儀たたたさんは、「ゼロアカ以外全部紹介」という企画をはじめたとたんに、自らを「環境」であるかのように偽装してしまっていたのです。だからこそ、講談社文学フリマによる同様の偽装を、ことさらに暴くことができなかったのではないでしょうか。
 そしてまた、

O2Eやコミティア、地方にもたくさんのイベントが開かれています。

という安倉儀たたたさんの発言も、やはり何かを隠しているかのように思われてきます。ここではさきに触れた、「全部」という宣言が排除する「それ以外にはない」はずのもののことが問題になります。つまり、同人というのは、何もイベントに参加しなくとも、同人であるだろう、ということです。安倉儀たたたさんの、文学フリマ以外のイベントを紹介する発言はしかし、それらのイベントに参加できなかった、たとえば(さきにふれた)抽選に応募すらしていない同人の存在を、「全部」から排除してしまっているのではないか、ということなのです。
 ここでは、理論的な意味でのサバルタンの問題が表れています。さまざまなイベントに参加できない同人は、その活動を同人の外へ発信する経路を持ちません(そうしたイベントでない経路としてホームページなどが考えられます。しかし、そのような経路を使ったときには、彼らは同人としてではなく、むしろ個々人として見られるのではないでしょうか)。たとえ彼らについて言及したとしても、その言及する私たちが同人活動を通じた経路を持っている以上、そうした言及は彼らに対する収奪になりかねません。ただ、たとえそうだとしても、安倉儀たたたさんが批評的な意識を持って述べ、宣伝すべきなのは、「環境」を偽装するイベント群のことではなく、そうしたニセ「環境」によって排除された者たちのことなのではないでしょうか。

ドリルが衝けるのは

 とはいえ、安倉儀たたたさんは批評を行うと同時に、「左隣のラスプーチン」主幹としても活動しておられるのですから、こんな問題について考察するより前に、「左隣のラスプーチン」のための客候補を少しでも多く文学フリマに集め、コミティア86に集めることのほうが、重要なのかもしれません。いままでの私の長い論は、宣伝広告を批評と取り違え、コンバインに乗っておいて垂直離着陸ができないと文句を言う、間の抜けたテストパイロットの珍道中だったのかもしれません。しかし、この曲がりくねった道は、ここでようやく、さきの予告どおり、安倉儀たたたの論考、"Noising article of GAMES 1/3 「戦争の温度から―スパロボ戦争論―」"に接続するのです。
 "Noising article of GAMES 1/3"は、題が不足なく表しているように、ビデオゲームシリーズ『スーパーロボット大戦』における戦争表象に着目した批評です。春の文学フリマで「S.E. vol.01」を(ちょっぴりだけ寄付もしつつ)買い、この論考を読んで不満に思ったこと、そして"Noising article of GAMES 1/3"の「つづき」に期待を高めたことのひとつは、『スパロボ』における「敵」が、社会的視点ではどのように解釈されるのか、ということが、「つづき」に持ち越されているということでした。ただ、その片鱗は、"Noising article of GAMES 1/3"中でもちらほらと触れられています。たとえば、

 言語が通じるか否かは「敵」のあり方にもっとも重要なファクターになる。


(中略)


 こうした戦いは、物語の構造のレベルに立ち戻りながら考えるとこのようにも言える。
 「我ら」の内部の不安要素を排除しながらお互いに見たことのない存在同士さえも「人類」として結束を固め、「敵」は各勢力に分断されているがゆえにまとまることなく各個に撃破されてしまう物語、と。


安倉儀たたた, "Noising article of GAMES 1/3", S.E. vol.01.

という箇所があります。「別の言い方をすれば、敵の敵らしさは、地球圏の生存意思が通じるかどうかで決定されるらしい」ともあるとおり、ここにおいて「敵」は、私たち(地球圏)にとって意思疎通の図れぬものであるとされます。しかし、完全に意思疎通の図れぬものを、私たちは「主体」として捉えることができるでしょうか*8。むしろそうした相手を、私たちは各「勢力」としてまとめて把握し、個々の主体の意思は無視してしまうのではないでしょうか。つまり、彼らを主体ではなく「環境」と捉えてしまうのではないでしょうか。
 ここで、安倉儀たたたさんの好む比喩、“ドリル”が、重要な意味を持ってきます*9。「ドリル」とは、他のさまざまな兵器と異なり、本来、「敵」ではなく壁や岩盤を貫くために作られたものです(『天元突破グレンラガン』でのシモンの二ツ名を思い出してください)。壁、私たちの行く手をふさぎ、いかなる倫理的問いかけも通用しないもの、これはすなわち「環境」です。ドリルで「敵」を衝く、ということは、その「敵」を「環境」であると認定し、倫理的問いかけを断念する、ということなのです。
 しかし、ドリルの作用は、「敵」を脱主体化することだけではありません。なぜなら、このドリルは、シールドマシンやマグマライザーのような自動機械のドリルではなく、主体が握り、スーパーロボットが駆るドリルであるからです。ドリルによって「敵」を「環境」であると認定しながら、しかし、ドリルで「敵」を衝く主体は、その「敵」に語りかけを行い、主体として認定しなおすことができます(『グレンラガン』でこのことがどのように行われたかは、ここでは論じませんが、私はこのことの少なさゆえに、作品に若干の不満を持っています)。


 なんだかずいぶん、釈迦に説法を重ねてしまったような気がします。いや、ここはラスプーチンにあやかり、怪僧に説法、といったところでしょうか。なにしろ、私のこうした混種的批評能力の大半は、安倉儀たたたさんの背を盗み見ながら培ったものですから。しかし、安倉儀たたたさんの戦争論は、文学フリマを戦場と捉えるなら、文学フリマに関する言説にも何らかの形で響いていくものだと考えたので、こうして架橋を試みることにしました。また、私的な話を続けるなら、この論を書く動力は、id:syusei-sakagamiさんと安倉儀たたたさんとのコメント欄でのやりとりを見たことにも起因します。この論をコメント欄でなくこのブログにしたためたのは、あのお二方のやりとりが、コメント欄という狭い枠のなかでの言説の窒息を反映しているようにも思えたからです*10
 そういうわけですから、安倉儀たたたさんが再びドリルを――批評というドリルを――手にしたはずの批評、"Noising article of GAMES 3/2"、楽しみにしています。
 それでは、文学フリマ会場にて。「S.E. vol.02」、お昼前に買いにいきます、昼食のとき読めるように。


 kugyo拝

*1:読者は引用には文脈の削られがあることに注意してください。

*2:ゲーム理論的でない意思のことは、意志と表記すべきだ、と思われるかもしれません。それはそのとおりで、講談社に意志はありませんが、ゲーム理論的な意味で、あるいは法的な意味で意思はあり、そしてそれ以外の意味での意思というのは、なんなのかよくわかりません。ここではそれを混同しているので、すぐに解消します。

*3:ただし、行為するとはどういうことかについては、デイヴィドソンをはじめさまざまな議論があります。この私の論にとってそこは今後の課題です。

*4:「環境」は主体ではないので作為を持つことはありませんが、無作為性に欠けるということはあります。無作為性と呼ぶには適格でない、と慎重に述べたほうがいいかもしれません。具体的には、たとえば同人ごとにボールを広場で投げて、1時間以内に地面についたら当選、そうでなかったら落選、というような抽選方法を考えてください。この方法ではどの同人も落選することはほぼなく、したがって抽選という主体の企図のためには、無作為性に欠けると言えます。

*5:補足しますが、これは別に、文学フリマ事務局が悪意を持っているとかいう話ではありません(強調しますが、私は事務局の皆様の持ち出し的尽力に、心から感謝しています)。事務局側に偽装の意図があるかすら問題ではありません。はじめに述べたように、この論は文学フリマについてのものではなく安倉儀たたたさんについてのもので、偽装と言っているのも、「安倉儀たたたさんの文脈のうえでの“文学フリマ”」による偽装です。これは現実の文学フリマ(事務局)とは、へたをすれば何の関係もありません。

*6:なお、ゼロアカ道場については、id:leftside_3では、ある意味で他の同人以上に大きく取り上げられていました――http://d.hatena.ne.jp/leftside_3/において、ブログ記事はすべて、http://a.hatena.ne.jp/leftside_3/の「左隣」に執筆されていたのですから。

*7:たとえば小説において「設定」は覆せません。「彼は走っている。」と―地の文で?―書かれたのなら、つまり「設定された」のなら、そのとき、「彼」は必ず走っています。小説内において語りは、自らを「環境」であると宣言/偽装します。

*8:この主体の問題については、野矢茂樹『哲学・航海日誌』でも議論がされています。

*9:ところで、http://d.hatena.ne.jp/leftside_3/を「ドリル」で検索しても、あまり多くはヒットしません。ここでは、安倉儀たたたさんへの手紙という形をとることで、安倉儀たたたさんが「ドリル」という比喩を好むことを私が知っているということを正当化します。

*10:とはいえ、このブログだって1024*768の小さなディスプレイの枠に収まっているわけで、その点ではまだこの論も窒息しているのかもしれません。まったく、ちょっと高解像度のエロ画像だと、すぐ閲覧に窮します。