あなたのkugyoを埋葬する

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アサッテ問答

 諏訪哲史アサッテの人』(講談社)の書評をしたときに、作品批評の存在論について考えた。
 『アサッテの人』は「ポンパ」などの「アサッテ語」すらも作為的に感じてしまい使えなくなっていく「叔父」を描いた小説なので、それをまともに受け取れば「ポンパ」などと無邪気に発語できるはずはない。当該の書評には書かなかったけど、だから『アサッテの人』へのそういう感想や書評はすべて、読解内容以前に問題外だと思っている。ちゃんと読んでますか? 問題提起をまじめに受け取ってますか? (でも、「アサッテ語」を用いてない『アサッテの人』批評なんて、いままで1つも見たことないけど……あ、これは言いすぎか)
 で、当該の書評ではさらにこう述べて、『アサッテの人』への批評は不可能だと論じた。いわく、「ポンパ」に触れないで批評をしてもそれは『アサッテの人』の批評にはならない、なぜならある作品を批評するためにはその作品のすべての要素に言及する必要があり、そうでないような批評は言及されていない要素を除いた作品、つまり別のテクストを持つ作品への批評となってしまうからだ。
 しかし、(私の以前の書評で論じたように)

  • 作品Wの持つ全テクストに言及しているときのみ、テクストCは作品Wへの批評である。(条件3)

を認めたとしても、「言及する」とはどういうことかについては、なお議論の余地がある。私の書評では、

 さて、これは一見破滅的な帰結に思えるので、上記の議論に反駁することを考えてみよう。
 ふだん私たちが、あるテクストCを指して作品Wの批評であると呼ぶ場合、CにはWのタイトルが含まれていることが多い。さきの議論では、どのような作品Wの小部分も作品Wそのものではない、としたが、Wのタイトルだけは、小部分でありながら作品W全体を指示できるのではないだろうか。『アサッテの人』と書きさえすれば、確かに『アサッテの人』という作品全体に言及したことになるのではないだろうか。
 ここで、作品のタイトルと作品の名前とを区別することが重要である、と言ったら、読者は混乱するだろうか。しかし、私たちは作品のタイトルだけで作品を見分けているのではない。このことは同じタイトルだが異なる作品、たとえばミルトンと渡辺淳一との『失楽園』が存在することを考えてみれば明らかだろう。二つの『失楽園』という作品のタイトルはどちらも「失楽園」だが、それでも二つは異なる作品である。この場合は作者の名前が異なるから見分けはつくが、同姓同名の人物が同じタイトルの作品を発表した場合などをさらに考えることができるだろう。
 タイトルが同じだが異なる作品を区別するためには、作品を同定する固定指示子と、そのタイトルとを区別しておく必要がある。作品『アサッテの人』は、「アサッテの人」というタイトルを持つ作品なのである。
 こう考えると、テクストCに『アサッテの人』という表記の、タイトルに対する言及があったとしても、それだけではやはり不足であることがわかる。そのテクストCは、「アサッテの人」というタイトルを持つ作品に対しての批評にはなっているが、そのような作品は多くあってよい。けっきょく、タイトルに言及しただけのテクストCは、
 アサッテの人
というテクストだけを持つ作品への批評にはなっているが、『アサッテの人』という作品全体への批評とは言えないのだ。

と論じたのだが、これは行き過ぎた議論だろう。この記事ではそう論ずる。


 タイトル"「アサッテの人」"と作品名"『アサッテの人』"とを区別できていないのは、論者か、反論者か? 上述の論では、反論者のほうが区別できていないということにされているが、じっさいには、これを区別できていないのは論者である。
 作品批評中に、"アサッテの人"なる語が現れるとき、それがタイトルとして使われているときと、作品名を指すために使われているときとでは、その現れかたは異なる。単純に言えば、二重かぎかっこがついている場合、それは作品名として扱われており、したがって、作品全体を指示するために使われている。
 むろん、「『アサッテの人』というタイトルに現れる文字の、一見ばらばらに見えて、じつはすべてに共通した、左向きの払い」などという形で、"『アサッテの人』"がタイトルとして扱われる場合はある。そのため厳密を期するならば、"『アサッテの人』pp.1-189"のように書くべきだろうが、これは慣例の問題である。そしてこのように理解すれば、論者が主張するのと異なり、タイトルと作品名との混同は起こらない。


 論者は以下のように悲嘆してみせるが、それは杞憂であろう。「ポンパ」などと書かずとも、「これは『アサッテの人』への批評である」と宣言しさえすれば、『アサッテの人』への批評は完遂できるのだ。

 私たちはこの恐るべき緑の本を前に、ただ沈黙するしかないのだろうか。そうではない。最後に、この『アサッテの人』を批評する方法を、一つお教えしよう。それは『アサッテの人』を読まないで批評することである。
 「ポンパ」が作為的になってしまうのは、読者が『アサッテの人』を読み、「ポンパ」の作為性にじゅうぶん気づかされてしまうからである。ということは、『アサッテの人』を読んでいない書き手によるテクストが、まさに初期「ポンパ」のような無意識的な働きによって、まったくの偶然により『アサッテの人』の全テクストに言及している、という事態が起これば、それは内容的にも存在論的にも批評を完遂したことになるのではなかろうか。もしそんな事態が起きうるとすればだが。


 もちろん、さきに触れたとおり、この批評は一回で完遂しなくてはならないわけではない。数多くの批評を合成していくことで、私たちは『アサッテの人』のほんとうの批評にじょじょに近づいていけるはずだ。だが、それが何か救いになるだろうか。その合成作業もまた、無意識的に行われなければならないのだ。
 私にはもうこの『アサッテの人』を批評する資格はない。また、『アサッテの人』を読んでいなくても、この批評をすべて読んでしまった者は、やはり「ポンパ」の作為性に気づいてしまった不適格者だろう。もはや私たちは、まったくの偶然にすがるしかない。あるいは、少しでも期待するとすれば、この批評をほとんど読み飛ばしており、なおかつ、この批評の最後の文だけを読んだような、そんな読者の存在の可能性にだろう……。


 この批評を読むべからず、『アサッテの人』を読むべからず、そしてなおかつ、『アサッテの人』の批評を書くべし。ああしかし、こんな支離滅裂な指令に、素直に従う者がいるだろうか……。