あなたのkugyoを埋葬する

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ぼくもミステリな日常に

 最近買った本。

向日葵の咲かない夏 (新潮文庫)

向日葵の咲かない夏 (新潮文庫)

 1日の予定を設計してから出かけるのを忘れたので、手元に読むべき論文がなく、本屋で買ったもの。道尾秀介の名前は、海猫沢めろんさんに教えていただいてから気になっていたんだけど、私がしばらくミステリーを読んでいなかったこともあり、手を出してなかった。
 さすがにいろいろな賞をとっているだけあって、気に障らず読めるような文章。最近のエンターテイメントはちゃんと洗練されているし、ミステリーだという信頼もあるので、90分くらいで集中して楽しく読むことができた。ミステリーだという信頼、というのは、多少不自然なところがあっても、最後にそれを伏線として回収してくれるだろう、ということです。
 で、ミステリーとしての出来はごく普通で、設定はイージーモード。伏線の張り方と回収との配慮はわかりやすいぐらいに行き届いているので、間口の広い作品だと思う。すれたミステリー読者にとっては、序盤からすぐに見えてしまうネタがあるのだが、それが作中ではかなり後々まで伏せられたままなので、「ひょっとしてネタはこれだけなのではないか?」という心配がないではなかった。もちろんそうではなかったが、それでも意外さが足りなかったので、及第点、という評価をする。
 気になった点をひとつあげる。全編、「S君」はどの語り手からも本名を呼ばれることがないようなのだけど(ないよね?)、ということは、この物語全体を語っている、高次の語り手がいるはずだ。それはだれなのか。最後まで読んだとき、その候補として妥当だと思われるのは「僕」(「ミチオ君」)だろうが。


 この作品とはほんとうにぜんぜんまったくなんの関わりもないのだが、なぜフェアな叙述トリックというものがありうるのか、ということで短い批評が書ける気がする。映像と文章とでフェアさの違いがあるとすれば、それは心的イメージというものに起因するのではないか、という筋。いや、しかし、叙述トリックに関する議論には蓄積があるはずだから、それらを見てもらうことにしよう。


 本屋で「大航海 2009年 04月号 [雑誌]」を立ち読み。特集 [現代芸術]徹底批判、ということだが、「量子論理的[現代美術批評]批判」(藤田博史)のようなタイトルの文章を載せてしまうのはいかがなものか。内容も確認したが、解釈の多様性を語る言葉は量子力学から借りてこなくたって、批評の世界にいくらでもあるだろうに。なんのために批評の蓄積があると思ってるんだ。もう21世紀なんだぞ。
 解釈の複数性とか、観測の効果とか、あまりばかばかしいものに「量子力学」の名をつけるのは勘弁してほしい。たとえば、投げられたボールを時刻tで見たときと時刻t+1とで見たときでは、ボールの位置はとうぜん異なるだろう。観測時点によって異なるものが見える、というだけなら、そのこと自体はちっとも量子力学的ではない。
 『NHKブックス別巻 思想地図 vol.2 特集・ジェネレーション』の「ニコ二コ動画の生成力〜メタデータが可能にする新たな創造性」(濱野智史)などにもこれは言えそうだけど、もし「量子力学的」などとこの21世紀にもなって言い出すのであれば、それがもはやラルク的なジョーク(なんにでも類似性を見出す)であることを自覚して、もっと徹底的にやってほしい。「波動の収束」だの「多世界解釈」だのといった、批評家の手垢にまみれた言葉のほかにも、まだまだ楽しそうなマジックワードはあるぞよ、ほれ、「量子もつれ」「隠れた変数理論」……。


 ただ、あまりにやりすぎたために、もはや「量子的」という言葉が現代の批評の言葉として迎え入れられているのかもしれない。彼らは物理学から用語を借用したつもりになっているが、そうではなく、過去の批評からの借用になっている、ということだろうか。
 (西暦)ゼロ年代、と宣言するとき、それは過去2000年との断絶を意味しうるが、もし批評の言葉もゼロ年代にあるもののみでまかなうというのであれば、これはなかなかおもしろい縛りプレイだ。「つよくてニューゲーム」は(ニューゲームでもないが)つまらない、というのは、共感を得られる話だろう。