あなたのkugyoを埋葬する

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ご親切にどうぞ

 こないだ『戦争論理学 あの原爆投下を考える62問』への合評会を覗いてきたんだけど(あわただしい入退室で参加者の皆様をわずらわせていないとよいのですが)、あの本では、じゅうぶん合理的でないひとびとを非道徳的な結論に導いてしまいやすいような、そんな合理的な議論を公表することは道徳的か? ということが論じられていてすてきだった。
 これについては、『多宇宙と輪廻転生―人間原理のパラドクス』でも触れられていたように、「こんな書籍を読んでる人間はソフィスティケートされてる確率が高いからおk」と応じる道がありうると思う。ちょっと敷衍すれば、書籍として言説を世に出すことの利点は、それを読む体験がファインチューニングされることであり、届くべきひとのところにしか届かないことだろうと思う。もちろん、比較的、であって、もっと絞る手段はある、学会とか。
 選民しそう? いやあ、その選別が道徳的にどうであるかは、選別の基準いかんによって変わりうるんじゃないかな。


 とはいえ、わかりづらい皮肉とかジョークとか回文とかをブログに書きたくなることはあるんでね、つまり、親切に説明してあげるという親切をなしてあげたくもないほどイヤなやつとかに対してはにゃ。でも、まあウェブなんでうっかりしたところへうっかり郵便が届いてしまう不安は現実になりやすいからさ、そういうときは、先達に学べばいいと思うんですよね。
 つまり、マックス先生やワイマン先生にご登場いただいてですね、

 これは、マックスにしては、いつものかれらしくもない鋭い議論である。


論理的観点から―論理と哲学をめぐる九章 (双書プロブレーマタ), p.16.

とやるわけだな。


 でもそんなふうにして虚構キャラクタをいびって道徳的に問題はないのだろうか? 私の考えでは、虚構キャラクタをいびることこそ推奨されるべきだ。
 以前のエントリー群(虚構キャラクタに対する罪 - kugyoを埋葬する)で私は、我々は虚構キャラクタに対し形而上的な罪を負っていると議論したけれども、もしそうだとしても、やはり虚構キャラクタをいびることは推奨されてよい。
 前回の議論の結論を手短にまとめるとこうだ。我々は虚構キャラクタに対し時空的な関係を持てないがゆえに、虚構キャラクタに対してはヤスパースのいう形而上的な罪を負うことしかできえない。そして形而上的な罪を負ったと自覚したとき、我々はひるがえって現実をながめ、「虚構世界のことはどうすることもできないが、現実世界を変えることはできる」という形で、現実世界について深く考え、能動的に行動するようになる。
 こういうわけだから、創作者として虚構キャラクタをいびることは、つまりいびられた虚構キャラクタを描き出すことは、現実世界について深く考え、道徳的に善い行動をとる源泉になるはずだ。別にとっぴなことを言っているわけではない。たとえば『シンドラーのリスト』でも『はだしのゲン』でもいいが、それらフィクションは、現実世界の戦争犯罪について深く考えるきっかけを広く提供しなかっただろうか?
 なお、上記の議論が間違っていたとしたら、つまり、虚構キャラクタに対して形而上的な罪をも負うことはないとしたら、そのときには、もうばんばん虚構キャラクタをいびってストレスを解消することが許されるであろう。ただ、もしも、上記の議論が間違いで、虚構キャラクタに対して法的な責任を負わなくてはならないということになれば、我々はマックス先生(の代弁者)に訴えられるかもしれないが……。