あなたのkugyoを埋葬する

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思うこと書き留めたい事。

 『戦争論理学 あの原爆投下を考える62問』について以前のエントリで触れたが(ご親切にどうぞ - kugyoを埋葬する)、これに出てくる三浦俊彦の議論に、ちょっとした違和感を覚えはじめた。
 いま、手元に現物がないのであした確認しようと思うが、三浦の議論のなかに、
「質的な価値判断は意味情報によってのみなされるべきで、それが意味情報の装飾のされかたによって異なってはならない。たとえば空襲での死者の写真を見る前から、空襲による死者の死がどんなものであったかというのはわかっているはずであるから、空襲が善であるか悪であるかという判断は、写真を見る前後で変わらないはずである。たしかに、悪であるという確信を深めるなどといった、量的な価値判断は変化するかもしれないが、質的な価値判断までも変化するようでは、そのひとは意味情報から適切に推論することができない、あまり論理的でない主体だったのだ」
というのがあったはず。


 だが、もし価値判断に量的とか質的とかいう区別をちゃんとできるとして、質的な価値判断というのは、量的な価値判断に即付(supervene)するのではないか。
 ある行いが善だとか悪だとか言うのは、何かほかの行いと比較してのものであるというのは、わりと受け入れられている話だと思うが、この広く受け入れられている前提が述べているのは、まさに上記のようなsupervenienceであるように思う。
 そして、量的な価値判断が変わったことによって、質的な価値判断が変わりうる、ということを認めてしまうと、「空襲の死者の写真で量的な価値判断は変わってもよい」ということも認めないほうがよいことになりはすまいか。
 それはそれでいいのだが。あと、絶対善とか絶対悪とかいうものを認めれば、上記の即付性前提が崩れるので、それもそれでいいし、さらには、三浦の議論を、「質的な価値判断が変わるほどの、量的な価値判断の大幅な変更は、ダメよ」と読み替えれば、特に問題はない。
 うーん。