あなたのkugyoを埋葬する

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「MAD ALICE」

 第7回文学フリマで買った同人誌、M@D AGEの「MAD ALICE」を読みました。


 「荒ぶる鷹のポーズ」だとか「夢がひろがりんぐ」だとかいった、ふつうならあざとい遊びとさえ感じられるフレーズを盛り込んでいる作品は、自身をそれらフレーズと同様の文脈上に置こうとする。あるいはもう少し複雑な構造を見ることも容易だろう。エロゲーでもいいし、VIPの「やる夫は……ようです」スレでもいいが、それらは、2ちゃんねるの書き込みやニコニコ動画のコメントやをテクスト中に登場させることで、

  • 前述のとおりそれらの文脈への親和性を高めると同時に(やる夫への親近感を読者に抱かせると同時に)、
  • もう少し強固な文脈を備えている虚構キャラクタ(長門有希)が、虚構キャラクタに向けられていたはずのフレーズを自ら口にしてみせるのを描くことで、審級のズレによるおかしみを生じさせもしている。

 上述したような“オタク的”文脈への親和性をもたらすには、作者と読者との共犯関係の取り結びが必要になる。その取り結びのために、他にもさまざまな技巧がこらされるし、それがうまくいっていなければ、作者側から持ちかけた共犯関係は読者にはねつけられ、「オタクに媚びてんじゃねえぞ!」という反発にもつながる。ところで、それはともかく、この作品『学園都市とアリス』においては、こうしたフレーズは我々に親近感ではなく、不気味ななれなれしさをもたらしている。
 これは、これらフレーズが、読者に向けられたなれなれしい語り(「住民が語る学園都市」におけるインタヴューしかり、「学園都市内の某テレビ局のスタジオにて」「おにいさん」が語る自慰指南しかり)に含まれていることにも起因する。しかし、さらに重要なのは、この物語に頻出する意味不明のなまえ、「アレ」だの「連中」だのといった名前の持つ効果のほうではないか。

物語はいつだって筋書通りにはいかない、こっちが知らないうちに始まってて、そうかと思ったら、いつのまにか終わってて、それはそう、この世界の常識だ、


『学園都市とアリス(Naked Radio Edit)』

 そのとおり。「この世界」においては、物語はいつのまにか始まる……物語を読みはじめたときに意味不明の(ただし登場人物らにとっては自明な)なまえを見かけた我々は、我々の知らない時点ですでに世界は活動しており、我々はそこを無理やり覗かされているだけなのだ、ということに気づく。物語が読者から自律して活動しているかのような錯覚を抱かせるこの仕掛けが随所にあるからこそ、つまり、登場人物が我々から自律しているからこそ、“オタク的”文脈から駆り出されているはずのフレーズは、彼らも我々同様に“オタク的”文脈を楽しむ自律した人物である、かのような不気味な錯覚を、我々に与えることができるのだ。


 この世界のできごとを親切に解説してくれるナヴィゲータを持たぬまま、我々は「ぼく」と「相棒」とのバスルームでのやりとりを読むことになるのだが、その断章は彼らの就寝とともに終わり、次の断章には「《アリス》」を演じる羽目に陥った少女が登場する。
 「タクト」はなぜ「アリス」の本当の名前を呼ばないのか? それは、虚構キャラクタに複数の名前がつくことは避けられるべきだからだ。虚構キャラクタは現実世界の人物と異なり、存在する基盤としての現実世界を持たない。そのため、別の呼び名(性格づけ)を与えられた途端、もとの虚構キャラクタと同等の地位を持つ別の虚構キャラクタが登場してしまうことになる。*1現実の人物である私がkugyoやpubkugyoといった複数のハンドルを使い分けようとも、現実の私を参照すれば、それらハンドルはむなしく収束してしまうのに対し、虚構キャラクタがそのようなハンドルの使い分けをはじめると、我々は混乱してしまう。手短にまとめれば、我々にとって虚構内虚構の受容のしかたは、虚構とほとんど変わらない、ということだ。


 こうして、この作品はどうやら、フィクションであるという意識のもとに作られている、まっとうな意味でのメタフィクションとして読めそうだ、という予感のもとに読み進めると、

 以下は日本のアニメ雑誌、『アニメージュ』の男性記者がアオイに対して行ったインタヴュー。ただしこれは、布団の上で一糸纏わぬ姿で眠っている彼女の傍らに座って、彼女のからだを舐め回すように観察している、サージェント・ロックの妄想である。

と銘打たれた断章が登場する。こうした注記の存在じたいも、また「妄想」と断言されていることも、この作品をメタフィクションたらしめるのにじゅうぶんだろう。この断章の終わりには、「サージェント・ロック」が「アオイ」の目覚めに焦り、「オレをまだここから、どうか抹消しないでくれ――」と内語する部分もある。こことはどこか? もちろん、物語のなか、ということになる。


 さて、これらの断章に、ナヴィゲータを持たぬままに巻き込まれ、それでも何とか、いくつかの言葉を手がかりに各断章をつなぎあわせる試みをする読者の前に、あの「ペナ山本」の断章が現れる。この断章では、語り手もまた読者同様、名前以外は「居所も職業も、年齢も外見も性別も一切不明の人物の捜索」に携わっている。この断章はもともと、『大都会交響楽(1)』という形で先に公表されていたものだ。それを見たときから、この作品の異様な生々しさについて考えていたのだが、どうやらこの生々しさの原因は、この作品を読んだときに受け取る経験の構造が、現実において我々が受け取る経験の構造と似通っている、ということにあるのではないか、と思っている。*2
 いや、むしろ、ほかの小説作品には、この作品にある生々しさが足りない、と言ったほうがいいかもしれない。小説作品を読んでいてしばしば私は、「おれたちこんなに流暢にしゃべったり考えたりできないだろ」と考えることがある。どんな“リアルな”小説であろうと、登場人物はほぼ滑らかに思考し、お互いの意図を通じ合わせる。ディスコミュニケーションすらもが滑らかに行われれる(読んだ瞬間、ディスコミュニケーションであるということがはっきりわかってしまう)。どれほど“リアルな”作品であれ、私はそうした作品の世界には入り込むことができなくて、唯一それを可能にしてくれるのが、フィクションである(から不自然に滑らかに会話することも“お約束”として正当化される)ことを明言するメタフィクションであったのだ(諏訪哲史の作品なんかも、メタフィクションとして読まないと、私にはまだ滑らかすぎる)。しかし、この作品をメタフィクションとして見ることができると言った前言と食い違うようだが、この作品はただのフィクションとして読まれたときにも、やはり滑らかさを排除した語りで満ちており、だからこそ、ある程度の枠に収めるためにどこかを滑らかに端折らざるをえない商業誌にではなく、いくらでも好きなだけ戸惑いを描きつづけることのできる同人本という媒体で、提出されるべきだったのだと思う。


 フィクションであること、同人本であること、小説であること、これらすべてに理由を持っているこの作品は、やはり私にとって、第7回文学フリマ最大の収穫であったと、第8回文学フリマを目前に控えた今になって思う。
 くそっ、去年の11月にほんとうはこれをちゃんと書くべきだったのだ、今回の出店サークルカタログにM@D AGEの名前が見当たらないのを確認して、ちょっと後悔している。

*1:“二つ名”はここでいうところの名前ではない(だからこそ“二つ名”なのだ)。メインの固定指示子がひとつ決まっていて、ほかの“二つ名”は訂正可能な記述句にすぎない、というのであれば、当該の虚構キャラクタの存在論的地位は何ら揺らがない。また、性格が変わった虚構キャラクタに対し、「黒○○」「白○○」などと別の名前をあてがい、あたかも2つの異なる虚構キャラクタであるかのように扱うことも、虚構キャラクタにとって複数の名前が危険であることを表しているかもしれない。

*2:リアルとかリアリティとかについて言えば、ある作品が、現実に我々が経験しうるできごとを描写しているために(経験されるものの似通いのゆえに)“リアルだ”と言われるのか、それとも現実において我々に経験されるのと同じようなしかたで経験されているようなそんなことを描写しているために(経験のされかたの似通いのゆえに)“リアルだ”と言われるのか、を区別することが重要なのではないか、と考えている。