「コワカエ 小説と批評 第一号」
第8回文学フリマ・入手物と感想(9評/55タイトル、追加中) - kugyoを埋葬する
(更新ちゅうです)
第8回 文学フリマで買った同人本の紹介です。
- E-26 コワカエ:「コワカエ 小説と批評 第一号」(\500)
なんと、収録された小説への批評をも掲載した、意欲的な同人誌。基本的に、小説の直後にその小説の批評が掲載されています。最後の論評会では、収録された全小説に言及があります。こういうのが、刊行時期を自由にできる同人本の強みですねえ。
収録作品は以下。
- 志方尊志「茄子」(小説)
- 金城昌宏「揺れ動く茄子」(批評)
- 青猫屋亭主「ジャンクフード」(小説)
- 歳進院殿誠「隙間男」(小説)
- 岩田仁志「The Way of Loving Literature」(批評)
- 浅岡進「彼と雨の関わり」(小説)
- 竹内あかね「しをしを」(小説)
- 水月廣海「水という隠喩 - 浸透すること」(批評)
- 実末和也「チャリンコに乗る時に思い出すこと」(小説)
- 水月廣海×岩田仁志×金城昌宏「いかに読むか コワカエ賞選考」(論評会)
「茄子」
「揺れ動く茄子」
「寺田」と「井上」とのテニス試合の模様を、ねちっこい描写で追った小説。冒頭では、焦点人物がだれなのかは明かされないため、叙述が歪んでいる。
一陣の風が吹き砂塵が舞い起こる。球を載せ流れ来るような気がした。
球は大砲のように打ち出され迫る。その威力とは裏腹にスイートスポットにあたった球は打った者に驚くべき心地よさは与えども、たいした衝撃は与えない。スカン、という小気味良い音だけが静寂のコートに響き渡る。
長い叙述のなかでめまぐるしく焦点が切り替わる。人物(「気がした」)から「球」へ、あるいは「ラケット」へ、あるいは「足」へ。「膝」にいたっては、
存分に曲げられた膝は「棒になれ」と天に祈るがごとく、ただ上に向かって全ての力を解放する。
と内語までやらかす始末である。いたるところに焦点化が施されており、したがって焦点としての役割をなしていない。ここではもはや、人物は風景の一部にすぎないのだ。この場面の最後の1文は「審判の声が響き渡り、吹かれて消えていった。」であって、ということはここでも、「審判」ではなく「審判の声」が焦点化されている。*1
では、この叙述の氾濫を、「揺れ動く茄子」で金城はどう見たか。
本来井上よりも早いサーブを打つであろう寺田において、そのサーブは書かれること=描写によって延々と引き延ばされ、遅れを伴わされるのである。
本来井上よりもレベルが上の寺田が段々と井上に追いつかれていったのは、井上の進化や潜在能力の発揮等の物語的言説ではなく、書かれることによって、早い寺田が遅くなり、遅い井上が加速する。
金城は、この「寺田」の返球への叙述の氾濫と、それに対比される「井上」からの返球への描写の短さとが、叙述という審級(「“ただ言葉であれ”という抑圧」)を逸脱し、物語の展開に説得力を与えているのだ、と述べているのである。
はっきり言うが、この金城の読みに私は感動した。おそらくは本文中の「寺田」の内語、
何の気持ちよさもなく、いろいろな想念が、段々と自分の体を蝕んでいっているだけのようだ。なすすべもない。
を手がかりにしたのだと思うが、「なすすべもない。」という1文をタイトル「茄子」と結びつける丁寧さなどにも感心した。
ところで、私は言いたいのだが、批評とは共同作業であってよい(「アサッテ問答 - kugyoを埋葬する」)。この金城の読みを展開し、さらに徹底させることで、原テクストのすべてに言及することができるならば、そのぶんだけ批評は原テクストへの批評と呼ばれる資格を増したことになるはずだ。
金城は「茄子」について、以下の解釈項を設定する。
『茄子」と題されたこのテクストは一読すると否が でも「逆転」というものが目につく。井上の逆転、最初に物語の終わりから始まるという逆転。とりあえずはその「逆転」を「茄子」的主題とする。
しかし、「逆転」に注目し、なおかつ叙述という審級に着目するならば、もう1つの「逆転」の可能性が即座に浮上する。短い文で記述されていた井上のサーブ・返球が、突如として長大な回想にのまれる箇所が、この小説の最終部分なのだから。
頭の中には、はぁ、はぁ、という軽い呼吸音だけが頭の中に響く。アゴから汗がしたたり落ち、地面に丸い跡をつけていく。また厳しいコースに球が打ち込まれる。ダッ、駆け出し、からくも打ち返す。また逆のコースを突かれる。追いかけ、打ち返す。試合の前日に監督に言われた言葉だけが頭の中に響く。
この記述のあと、「監督に言われた言葉」が7行にわたって続き、さらにそのあとも井上の心情描写がある。これまで「井上」についての叙述と比べて明らかに長いのだ。
「井上」の頭にあるのは、もはや「監督に言われた言葉だけ」ではない。「寺田」のサーブ前の姿勢を「後光ではなく、後影。」などと評していることからもわかるように、「逆転」は再び起こり、こんどは「井上」のほうが、あの「邪念」、想起された過去に蝕まれはじめたのだ。
物語はこんな1文で終わる。
そして寺田が下に向けていた掌を上にむけ、左手を天に向かって高く突き上げまっすぐトスをあげる。
(了)
そして物語のはじまりはこの1文である。
左手を天に向かって高く突き上げ、まっすぐにトスをあげる。
この一致をもって、冒頭の場面こそ時系列としては最後に来るものだ、と金城は述べる(「最初に物語の終わりから始まるという逆転。」)。そうかもしれない。だがここで、たった1つの読点の追加(削減?)というズレに着目するなら、冒頭の1文は末尾の1文そのものではないということになりはすまいか。
いったん、我々が等閑視した、物語内のできごとに目を向けよう。小説の終わりでは、ゲームの状況は次のようであった。
ゲームカウント4―5.フィフティーン・フォーティ。先に6ゲームとったほうが勝ち。井上マッチポイント。
寺田のサーブ。
そして冒頭の、だれによるものかわからぬサーブは、以下のように描写される。
そしてネットの上部分の白帯に当たった球は、バチっと重苦しい音を立ててコートへ落ちた。相手の陣地内のサービスエリアに落ちれば、もう一度打ち直し、自陣内に落ちれば相手の得点となる。
「ゲームセット」
審判の声が響き渡り、吹かれて消えていった。
テニスにはダブルフォルトというルールがある。サーブのミスは2回で失点になるのだ。つまり、冒頭のサーブで「『ゲームセット』」が宣告されたということは、このサーブは1回のフォルト(サーブ失敗)のあとの2回めのサーブだった(そしてまたしてもフォルト)、ということになる。末尾での描写(1回めのサーブ)とわずかだが噛みあわないところがあるのだ。
この間隙に何かが入り込んでいる。私の考えでは「井上」が再び「逆転」された可能性さえもが。しかし、その入り込んだなにものかへの描写はまったくない。ここでは描写による加速が行われている。物語内で起きたできごとの量に比して、描写はゼロ、どころか、冒頭の描写を末尾の描写のあとに来るものとして見るのなら、負の量ですらある。
この急激な、タキオン的とさえ言える加速*2に利を得たのは「井上」か、それとも「寺田」か。サーブとロブとにむだな力を込めすぎて自滅していったのは、けっきょくどちらなのか。「茄子」はその未決のうちに揺らぎ、「(了)」の字には取り消し線が加えられて「子」となる。