あなたのkugyoを埋葬する

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「Twitter本」その2

何をやっているのかについて

 at_akada(赤田敦)さん(http://www.at-akada.org/)と論争をしています。非存在のTwitterアカウント「@shoukou5」について、その存在論的身分を問い、「@shoukou5に対する謝罪」とはどういう意味を持つのかを検討する議論です。


 シノハラユウキさんと夏目陽さんとが制作・編集の「Twitter本」に、pubkugyo名義で寄稿しました。そこではat_akadaさんと論争を行ったのですが、お互いまだ決着をみていないと考えているので、Webで論争を継続しています。
 これまでの経過については以下のリンクをご覧ください。

 これまでのところ、at_akadaさんは「@shoukou5に対する謝罪は、可能的対象に対する謝罪である」と主張し、私は「「@shoukou5に対する謝罪は、虚構的対象に対する虚構的謝罪である」と主張しています。
 以下では、私の反論に対するat_akadaさんの応答(反事実的存在仮定(ロングバージョン) - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ)を受け、再反論をしながら「虚構説」の擁護を図っています。
 なお、初出媒体の性格上、互いのTwitterアカウントを付記します。

 また、議論の内容を読んで、なにか哲学的意見をお持ちになりましたら、ブログ・コメントその他でお寄せいただけると、論争もさらに盛り上がると思います(ソーシャルブックマーク経由だとうっかり見逃してしまうかもしれないです)。
 それでははじめましょう。

pubkugyoの再応答「ゆらめく@shoukou5?」

 対論とそのロングバージョンと、興味深く拝読しました。特に、可能的対象はどれなのか(何個あるのか)という対応者(counterpart)の曖昧さの問題を多者の問題の1種と捉え、超付値ルールによってそれを解決しようという方針には、非常に説得されます。
 しかし、 @at_akadaさんの応答が擁護しているのは、最後の1文に如実に現れているように、実のところ、未知説+反実説ではないでしょうか。そして、その擁護は、未知説の人数の難点を避けられていないと思われます。
 一見して奇妙に思えるのは、@at_akadaさんの応答が、未来の1時点について検討しているにも関わらず、時制演算子ではなく(真理)様相演算子を導入していることです。そして、@at_akadaさんの応答に現われる演算子を時制演算子に読み替えるにせよ、時制演算子を付け加えるにせよ、@at_akadaさんの応答は最終的な擁護の段階で無理な仮定を犯しているように思います。それは、「Twitterには同名のアカウントは2つ存在しない」という仮定をより精確に述べた、

  • 「(ある可能世界において)@shoukou5と呼ばれる存在はある時点にただ1つであり、しかもすべての時点に渡って、それ以外には存在しない」

という仮定(S3-1の精確化)です。
 時点tにおいてのみアカウント@shoukou5を利用し、それ以降@shoukou5を放棄した存在がいた可能性は、どの時点tについてもあります。そして、たとえば現実世界の将来に@shoukou5を利用した存在が、10年後までに合計10人いるかもしれません。これらは反実仮想の中の同時点の存在ではなく(つまり祥子の例とは異なり)、現実世界の中の異なる時点の存在です。単に「フランス国王」と言ったとき、現実世界の過去や未来やにいるフランス国王のうちどれを指すのかわからないように、可能説への新たな擁護でも、@pubkugyoが謝ったのがどの@shoukou5なのかは不明のままなのです。
 「現実世界の過去や未来やに存在するすべての@shoukou5に対しまとめて謝ったのだ」という説は、Twitterアカウントについての説明として不適格です。私たちは通常のアカウントを、それほどに曖昧な存在として見てはいないからです。通常のアカウント@at_akadaに通常に話しかけるとき、我々が相手として想定するのは、そのアカウントを(話しかけた時点から見て)現在の時点で利用していることになっている(たいていは1人の)存在者であって、100年後にアカウント@at_akadaを利用する存在者は、考慮に入ってはいないのです。想定された特定の存在者に備わる曖昧さ(その存在者とは毛h1を含むのか含まないのか)と、存在者の想定じたいの曖昧さとを混同してはならないだろう、というのが、私の再反論の骨子です。


 むしろ問題となりそうなのは、虚構説が本当に、可能説よりよく1人の@shoukou5の選び出しに成功しているかどうかです。同じ虚構文でも読みようによって想定される状況が異なることはよく知られています。とすれば、虚構説が1人の人物を選べたと言うのは不当で、さまざまな読みに応じ、描き出される@shoukou5の姿は多様ではないか、という反論が成り立ちそうです。そして、どうせ複数の@shoukou5を認めるなら、謝罪文に見えるものを虚構世界の報告だなどと言い張らず、素直に現実世界の(ただし現在とは別の時点への)謝罪文と認める未知説のほうが総合的に優れているではないか、というわけです。
 確かに、虚構文から想起される虚構人物は、人により、また読むときの状況により多様でしょう。現実世界の人物と異なり、虚構人物は実在しませんから、現実のありようによって一意に定まらないのは当然です。しかしむしろ、一意に定まらないからこそ、我々はその都度、これこれの人物を描いているもの、と虚構に対し約定を設定するのではないでしょうか。そして同一の約定のもとでは、描かれた虚構人物は1人に定まるのです。(私も超付値ルールを利用させてもえらえば、この意味で「たった1人の@shoukou5がいる」は“超真”と言えそうです。)
 いっぽう未知説は約定を用いてはなりません。「あの時点に存在するあの@shoukou5だけが実在するのだ!」と言い張っても、現実の異なる時点に複数の@shoukou5が存在したらそれまでです。約定は現実のありようには勝てません。そもそも対応する実在がありえない虚構についてのみ、約定による@shoukou5の確定は有効なのです。
 約定と実在との鋭い対立を無化する方針をとったとしても、実在に関する強い約定と、虚構に関する弱い約定との区別までは消えないでしょう。たしかに、多者の問題の教訓は、現実のもの(たとえば雲)についても曖昧さの問題は発生する、それは意味論的決定=約定によって解決できる、ということでした。しかし、前述したように、その曖昧さの利用は、適切な範囲に制限されるべきだと思います(この「適切な範囲」こそが争点であるようにも思いますが)。以上からやはり、私は虚構説こそ正しい説明だと主張します。


 以上の私の主張に反し、未知説に生き延びる道がないわけではありません。我々が全知の存在であり、この宇宙の全歴史に渡って(量化の範囲はもう少し狭くてもいいのですが)@shoukou5は1回だけしか現れないと知ったならば、未知説は正しくなるでしょう。1回廃棄されたTwitterアカウントは再利用できない、というシステムがもしあれば、ほぼ同様のことが言えるのですが、未知説にとって、そしてセキュリティの面からも残念なことに、この仕様は2009年5月現在、Twitterにはありません。廃棄アカウント乗っ取り・なりすましを防ぐこの仕様が実装され周知されたとき、我々の身を苛む哲学的対立は、アーキテクトに溶かしつくされるのでしょう。