あなたのkugyoを埋葬する

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独我論に対する筋の悪い対応

 たしかこの内容は永井均の著書にあったのではないか。調べていないので、既存の学に基づかぬ文としておく。ローティだったかもしれない。
(あまりに論の運びが不明瞭だったのでちょっと修正。2009年7月29日)


 相対主義に対して、よく、自己論駁的だという反論がなされる。相対主義の主張に基づけば、相対主義を主張することに意義はなくなるはずだ、というパターンのものだ。
 こんな反論は審級の違いを設定することで、あるいは相対主義の主張はふつうの主張と質的に異なるものだとする(指令だとする)ことで、簡単に対応しかえすことができる。
 ところで、同種の反論が独我論に対しても行われることがある。独我論の主張に基づけば、独我論を主張することに意義はなくなるはずだ、というパターンのものだ。
 しかし、独我論へのこのパターンの対応も、やはり筋の悪いものだと思う。独我論を主張することに意義がなければならないというのは、過当な要求であるし、簡単にやり過ごせる要求でもあるからだ。


 過当な要求であるというほうからいこう。様相実在論に対して、次のような反論を試みたとする。
「様相実在論を主張することには意義がない。なぜなら、様相実在論の主張によって説得できるのは、因果的に閉鎖されたこの世界のごく一部の知的生命だけだが、いっぽう、様相実在論の主張によれば、知的生命はこの世界の外にも無限個存在するはずなのだから、様相実在論の主張によって説得できるのは全知的生命のうちの無限に小さい部分でしかないことになるからだ。つまり、様相実在論をいくら主張しても、主張しないのと変わらないのである。」
 むろん、この反論には容易に再反論が可能だが、それはそれとして、様相実在論にこのような方針で反論することじたいが、何かひどく間違っているように思われないだろうか。
 私の考えでは、この間違っている感じは、上記の反論が、様相実在論そのものと、様相実在論の主張とを、取り違えていることに起因する。様相実在論に限らずいかなる論であれ、全人類が私を残して滅びてしまったら、それを主張することは意義をなさないが、その場合でも、論そのものが間違っているとか矛盾があるとかいうことにはならない。
 同様に、独我論に対し、それを主張することはできないとか、それを議論することはできないとかいう反論は、ひどく的外れなものになる。この方針をとりつづけたいなら、反論者は、少なくとも独我論の場合だけでも、論じたいとその主張とを切り離せないことを言わなくてはならないだろう。*1


 まあ、それでも、反論者に譲歩して、この反論にまともに対応することもできるだろう。独我論のもとでも独我論を主張することはできる、と再反論するにしても、もとの反論は簡単にやり過ごせるものだ。
 非・独我論者は、独我論者にとって独我論を主張して説得すべき相手などいないのだから、独我論者は独我論を主張しなくてもかまわないはずだ、という反論を展開しうる。しかし、主張ということはおそらく他者*2の存在を含めずに(論点先取せずに)も規定できるだろう。
 たとえば、プログラマが、コードを書き、コンパイラにかけると、エラーメッセージが返ってくる。コードにミスがあったのだ。プログラマはそれを修正する。……このとき、人類が滅亡していてこの世にプログラマしか生きていなかったとしても、プログラマはこの行動を有意義に行いうる。そしてこれは、人類の意識だけが滅亡していて、プログラマ以外はみんな哲学的ゾンビになっている場合(独我論がたまたま正しい*3場合)に、プログラマが人間(この人間はコンパイラ同様に心的状態を持たない)相手に議論を述べ、ミスを発見する際でも同じことだ。つまり、独我論者にとっても、議論を述べるのは述べないよりもいいことでありうる*4
 主張することとか議論することとかいう概念を、特別な存在者(つまり他者)を前提せず形式だけに基づいて規定することにすれば、独我論者は独我論を有意義に主張し議論しうるだろう。そしてこの規定は、非・独我論者であっても共通に使えるものであるだろうから、この規定を採用しない理由がない。あるとすれば、こういう規定を採用すると、ふだん我々が主張や議論やと認めないものまで主張や議論やに含まれてしまう、という、直観の不整合に訴える理由だろう。ところで、もしそうした理由が見つかるとすれば、その妥当性をこそ、独我論者と非・独我論者とは有意義に論争しうる。彼らのあいだに議論が成り立たないということはぜんぜんないのだ*5


 上記で取り上げた、相対主義独我論やは、いくつかの細分化ができるはずだし、なされているはずだと思う。相対主義にも強いヴァージョンと弱いヴァージョンとがありそうだし、独我論にもそれはあるだろう(観念論的独我論は強い独我論だろうが、ほかに他者の存在を認めない独我論もあるだろうし、他者と私とに存在論的地位の違いを認めるだけの独我論もあるだろう。『マインド―心の哲学』には3種類の分類が書いてあった。)。私自身は、非・独我論独我論+機能主義とは、有意義に対立しうるとも思う(「この私の心・意識」にまつわる問題を除けば、人間コンパイラ説には、つまり、機能主義には、特に問題はないと思っているので)。サールは、独我論には反論不可能な「独特の非対称性」が備わっていると述べたが、そんなことはないだろう。

*1:しかし、私が考えるには、論じたいとその論を主張することとを不可分とするような議論は、論じたいとその主張者のふるまいとをも不可分にしてしまうのではないかと思う。主張ということには文脈が含まれるからだ。すると、そのような議論は、対人論証の誤謬を犯すことになるのではないか。

*2:他人ではないよ。人間じゃなくてもいいからね。

*3:非・独我論者の主張は、「この世界はたまたま非・独我論的である」というものになるはずだと思う。このように、独我論(や観念論)がたまたま正しい場合というのは、非・独我論者であっても矛盾なく考えることができるからだ。

*4:ひょっとすると極端な独我論者こそがいちばん議論を好むかもしれない。

*5:独我論擁護者は、あまり「彼らのあいだに」と言いたがらないかもしれないけど。