あなたのkugyoを埋葬する

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時間が無限にあればすべての人間が楽しめるのではないか。

 読了した『読ませる機械=推理小説 (1981年) (Key library)』をどう考えようか考えている。著者が推理小説の実作家であるところがおもしろい。
 ナルスジャック推理小説とそうでない文学作品とを引き比べて、以下のような違いを見出す。まず、一般の文学作品においては、

エピローグという名の一種の零度に到達するように出来事が連なっていれば、作中人物は、最後に人物の本性が純粋な形で実現される緊張状態に向かって高まって行く。……作中人物は、出来事からエネルギーを引き出し、そのエネルギーが作中人物を完成させるのである。そして、観客である読者は、そのとき美的な興奮を感じる。


読ませる機械=推理小説 (1981年) (Key library)』, p.246.

のであるが、いっぽう、

ところが推理小説では……作者はもう説明することが何もなく、謎は威嚇的な性格を失い、読者は本を開く前にいた状態とまったく同じ状態に戻る。この点が、実際、本質的なのである。
 推理小説を読むことは、気晴らしにはなるが、人間を豊かにはしない。


読ませる機械=推理小説 (1981年) (Key library)』, p.247.

ということになる。「推理小説は……人間を豊かにはしない」ということを、ナルスジャックはチェスの勝負に例えて説明する、チェスの勝負が終わったときにも、始まったときに付け加わるものはない、というわけだ。そして、この勝負によって、あるいは推理小説の読書経験によって満足させられたのは好奇心であり、「好奇心は心に糧を与えることはでき」ず、「論理には深みはない」のだ、ということになる(p.247)。
 ひょっとすると、「人間を豊かに」するような推理小説が、チェスの勝負という比喩だけには収められない推理小説が、ナルスジャックに抗して持ち出されるかもしれない。だがおそらくナルスジャックに言わせれば、それはもう推理小説とは言えないのだろう。じっさいナルスジャックも、ジョン・D・カーの作品を取り上げ、論理的な結末のあとに《超自然的な》終わりを暗示しようとした例として扱っている(ナルスジャックの用語によれば「ファンタスティックなもの」とも)。
 しかし、そういうことであるならば、ナルスジャック推理小説以外に目を向けるべきではないか。たとえばエリオットはどうだろう。ナルスジャックの考えに基づけば、古典の引用によって"組み立てられた"(!)エリオットの作品は推理小説となりうるのではないか。


 また別の観点からは、ナルスジャックの論が語っているのは、いくつかの作品についてではなく、2つの読みについてである、と語ることもできる。推理小説として読むのか、つまり、チェスの勝負のように、「知性を自由に動き回」らせ、無時間的な因果連関としての小説を、「ミステリを取り去」るように読むのか。それとも、文学として読むのか、つまり、「時間の優越した役割」を重視し、「継続的な意識状態によって生きられた物語」として読むのか。


 私の考えでは、「小説作品のなかに時間が流れている」という語りは、いくつもの虚構(fictionalismにおける、便利な省略句としての虚構)に基づいており、その点で不自由である。
 読みの前提として別の虚構を採用する場合には、小説作品の「なか」などないかもしれないし、そのなかに「時間」などないかもしれないし、時間は「流れ」ないかもしれない。あるいは、より大きな虚構においては(つまり、より基底的には)、小説作品は無時間的である。完成した小説作品の全体は、それが出現して以降の任意の時点tにおいて、あますところなく現れているはずだ。
 もしナルスジャックの論を読みに関するものとして受け取るのであれば、私はこう言いたい、小説作品とは基底的には無時間的であり、それゆえ、基底的にはまず推理小説的に読まれるものである。さらに言えば、読みの上記の対立は、じつは対立ではなかった、ということになる。推理小説的に読めないのなら、文学的に読むこともできないのだ。*1

*1:いちおう、念を押しておくが、ここでいう推理小説というのはナルスジャックがそうであると論ずるところのものであり、文学というのもまたしかり。