あなたのkugyoを埋葬する

主に読書内容の整理のためのブログです。Amazon.co.jpアソシエイト。

『存在と時間』5章29節で議論になったところ

 で、『存在と時間〈上〉 (ちくま学芸文庫)』29節「心境としての現=存在」で議論になったところは、次ね。


 まずは『存在と時間』本文から引用。

 この点をみただけでも明らかになるように、心境は、ある心的状態を寓目するということからははるかに距たっている。それは、ことさら視線を反転させて自己を把捉するというような性格のものではなく、むしろ逆に、このような内在的反省が「体験」に寓目しうるというのも、実は、現が心境のなかですでに開示されているからにほかならないのである。「たんなる気分」といわれるものの方が、いかなる近くよりも、現をいっそう根源的に開示する。しかしまた、それに応じて、この気分は、いかなる無知覚よりもいっそう執拗に、現を包み隠すのである。
 そのことを示すものが、ふさぎ(Verstimmung)である。ふさぎに沈んだ現存在は自分自身が見えなくなり、配慮されている環境世界はとばりで蔽われ、配慮の配視は見当ちがいになる。心境はことさら反省的なものであるどころか、それはむしろ、配慮された世界へ「無反省」にかかりきっているときにこそ、にわかに現存在を襲ってくる。


存在と時間〈上〉 (ちくま学芸文庫)』p.297


 一見してわからないのは、気分が現を根源的に開示するのに、それと同時に(「それに応じて」)、現を包み隠す、という点であるだろう。そこにはゲルヴェン本(『ハイデッガー『存在と時間』註解 (ちくま学芸文庫)』)で註解がされており*1、気分は、認知に対して現を包み隠すのである、というようなことが言われている。
 たしかに、この“開示”という概念を、現存在に認識できるように明らかにすること(明らかになっていること)、などと捉えるのは、あやまりであるようだ。本人が開示に気づかない場合だってあるのだから、これは峻別しないといけない。
 このゲルヴェン本の註解を補強するのが、次の“ふさぎ”にまつわる段落で、ここでは、気分の一種である“ふさぎ”が、現存在に対していろいろなもの(現存在とか環境世界とか配慮の配視とか)を隠してしまう、ということが言われている。
 さて、この節で導入された“被投性”もまた、気分によって隠されてしまうことのひとつと見ていいだろう。すると、門脇本(『『存在と時間』の哲学〈1〉』)pp.121-122あたりの記述は、だいたいこの逆をとって、「自分の被投性を直視しないうちは、ふさぎが現存在を襲ってくる」と言っているように思える(レジュメに書いたように。『存在と時間』5章28-29節 - kugyoを埋葬する)。

  • ふさぎという気分のうちにあると、被投性を認知できない
  • 被投性を認知しないと、ふさぎという気分に襲われる(逆命題)
    • 被投性を認知すると、ふさぎという気分から脱する(対偶命題。レジュメにはこっちも書いた。*2

つまり、門脇本は、ふさぎと被投性とを結びつけて語っているように思える。


 追記。門脇本pp.122の、

Wの不快感が開示しているのは、Zのような選択が可能であるにもかかわらず、Wにとって「課されたもの」がそのような選択を不可能にしていること、また、そうであることがWにとって動かしがたい事態であることなのである。

という記述を、上述のように読んでしまっていたが、ここでは、被投性が開示されていることについてだけ述べているのであって、認識については何も言われていない。また、門脇のいう「不快感」が、”ふさぎ”と同じことであるかどうかもわからない。追記ここまで。2009/11/14


 いずれにせよ、この部分を消化することも、“被投性”とか“開示態”とかいう概念を理解するうえで重要なことだだろう。後者は特に捉らえづらい概念だと思われるし。

*1:ゲルヴェン本pp.177-178を参照

*2:門脇はこっちではなく逆命題のほうをだけ主張していたんだったかもしれない。