あなたのkugyoを埋葬する

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びっくりカメラ殺人事件

 最近買った本。


 こないだのクィア学会いらい、ジュディス・バトラーの議論とそれに関する議論とがとてもおもしろく感ぜられてきた。
 社会学の問題を見ると、多くのひとが「他者」のことをとても気にしているのだな、という気がしてくる(論者たちを社会学者と一括してよいかどうかは別として)。
 「他者」なる語がうさんくさく思えるとすれば、それはきっと個々の人間どうしのやりとりをしか考えていないからだろう。1人の人間(「他人」)だけが単位なのではなく、そのひとが属する(と自認する)さまざまの文化、まで含めて考えるのならば、あるいは、そもそもやりとりを行いうる「人間」とはだれか、ということまで考えるのならば、「他人」ではなく「他者」なる語を使いたくなるときがあるだろう。


 とはいえ、私だって「固有名」なる語の使われかたのうさんくささを常日頃からあやしんでいて、ついカッとなることもある。「名前」でいいだろうところで「固有名」などと言わなくてもいいのに……。
 ためしに、「蓮實重彦は、蓮實重彦という名前ではなかったということもありえた。」という文を考えて、さらに、「蓮實重彦は、蓮實重彦ではなかったということもありえた。」という文と比較してみてください。前者の例文は理解できますが、後者の例文はなんかへんですね。そう、後者の場合、この名前は固定指示子として使われているのです(固有名は固定指示子としてはたらくというクリプキの説が正しいならば。もちろん、彼の唱えたままの直接指示説は、ラッセルの省略説や、サールの記述の束説同様、疑わしいものなので、名前について気になるかたは最近の研究をどうぞお楽しみに)。
 私がいちばんうさんくさいと思うのは、ある論者が亡くなったときの「大きな固有名が失われた」などというような使いかた、あるいは、議論のなかごろではさまれるコメントとしての「知らない固有名がたくさん出てきて戸惑っています」などというような使いかた、だ。たぶん、上述の説明から、これらの使いかたがなぜ奇妙かを述べられると思うが、それは、名前についてもう少し考察してからまとめたい。


 なんだかんだ言っても、まだSEPの翻訳も終わっていないのだ。
Names (Stanford Encyclopedia of Philosophy)