あなたのkugyoを埋葬する

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『筑波批評2009冬』

(更新ちゅうです)

第9回 文学フリマで買った同人本の紹介です。


(画像はid:tsukubahihyouのものをお借りしてます。表紙についてもあとで触れます。)


 扉ページが黒のべたっとしたインクなので、表紙をめくるとそれにくっついてめくれてしまい、いきなり目次が登場する。これはちょっとうまいやりかたかもしれない、プチ袋とじ。
 冗談はさておき、目次は以下。

  • 想像の涯ての眩暈 シノハラユウキ
  • 世界の中心で亜人 シノハラユウキ
  • ハイエク『市場・知識・自由』を読む
  • 二○一○年代にWebサービスはあるのか? 伊藤海彦
  • 新たなる神の顕現? ―2ちゃんねるにおける<神>概念について 藤田直哉

目次には書いてないけど、「(1)「個人主義」をめぐって」は報告・珠州環、「(2)「価格メカニズム」と知識の利用」は報告・塚田憲史、となっている。
 さて、この目次の下には、各論考の簡単な紹介が書いてあるのだが、私はこの紹介のすべてにどうも納得がいかなかった。もちろん、同人本の事情からして、締め切り直前に来た原稿をあまり直しもできずに即売会に合わせて印刷しなくてはならず(なにしろ文芸誌のように次月まわしなんてことはできないのだ、寝かせておける原稿などない)、したがってこういう紹介・あとがきなどはほとんど即興で出さなくてはならない、というのは理解できるのだが。
 この、目次の紹介にも触れながら、以下、各論考に対して寸評を加えていこう。

想像の涯ての眩暈

 「フィクションという言語ゲームとそのリアリティについて考察する」(紹介文より)シノハラユウキの論考。節は、

  • 0. はじめに
  • 1. フィクションという行為・体験
  • 2. 作品世界と作品
  • 3. ゼロの時間
  • 4. 異質性がもたらす眩暈
  • 5. 世界の多元性とリアリティ

となっている。

1. フィクションという行為・体験

 最初に、フィクション作品は表象・表現であるという議論があるのですが、表象・表現ということでいえば、フィクション作品はそもそも表象・表現なの? なにか事物を再現・表象するの? そうでなければ、ここで「表象の哲学といったものを展開する必要」などないはずですよね。けっきょく議論は、そうではない、というふうに続くのだから、ここではシノハラの議論の方向がわかりづらくなっていると思います。
 それから、シノハラの論考にともなって、フィクションの真理条件に話を進めましょう。シノハラの論を検討する前に確認しておきたいのですが、「オースティンの言語行為論の分析は基本的に動詞のレベルで行われていた」ってほんと? ほんとだとして、その後の言語行為論の展開からすれば、フィクションという言語行為に対応する動詞がないことは問題ではないのでは? 例えば「危ない」は平叙文だけれども、断定である場合もあるし、警告という 発語内の力 を持つ場合もあるよね。あと、(危機を)知らせるという発語媒介効果もあるでしょう。
さて、それはそれとして、フィクション作品とは内包だけを持つ表現(つまり語や句や)による作品のことだ、というのがシノハラの説(サール批判)です。これはフレーゲ由来だそうですが、では語の内包ってなんだろう、と考えれば、むしろラッセルふうの記述理論によって語を分解することになるでしょう。しかしその場合、フィクション作品に登場する語のうち、固有名以外のものはどう扱われるでしょうか? わかりやすい例を出せば、「幸福な家庭は皆同じように似ているが、不幸な家庭はそれぞれにその不幸の様を異にしているものだ。」は、フィクション作品中の文としてうまく位置づけられるでしょうか? というおなじみの問題が、ここでは待ち構えているはずです。
 さらにいじわるなことを言えば、シノハラのサール批判は、サールによってすでに想定されています。シノハラが言っているのは、フィクション物語を書く(「創造」)という発語内行為があり、それは、「イミ」は通常の断言という発語内行為とは異なるが「イギ」は同じだ、したがって、サールの言うようなまったく新たな言語行為として捉える必要は、ない、ということですね。しかし、では、通常の断言と「イミ」が異なる(「イミ」、つまり指示対象がない)というのは、どのようにして学ばれたのでしょうか。まさにサールが言うとおり、

もしこの見解が真であるとしたら、およそ誰にとっても、フィクションに属する作品を理解することは、当該の作品中に含まれる語およびその他の諸要素のすべてについて新たに一群の意味を学ぶことなくしては不可能になってしまう


表現と意味, p.105

のではないでしょうか。
 それに対して想定できる応答をも先取りした形でもっともっと言えば、ぶっちゃけ、この議論は当の発語内行為を“創造する”と呼ぶ(シノハラ)か“まねる”と呼ぶ(サール)か、という命名の取り合いであり、かつ、サールのほうは“まねる”を水平規約・垂直規約によってさらに分析できるのですから、議論はサールに有利です。さらに、サールは、素材を加工するような意味での創造が行われていると言っているのではなくて、フィクションにおける創造とは、指示という言語行為のまねごとという“共有されたまねごと”によって、みんなしてソレが指示されたふりをする、ということのことだ、と言っているのですから、シノハラの「何故真似ることが創造することに繋がるのだろうか」という疑問にも、すでに答えが出されていることになります。
 え? 「共有されたまねごと」を分析してくれ、って? そう、ここからウォルトンのメイクビリーヴ説へと話はつながるのであり、詳しくは『フィクションの哲学』を見るべし。で、だから、「フィクションにおける表象・表現」を、「言語行為という言語ゲームとも異なるもの」と言うのは、おそらく言いすぎです。
 さて、こうしてフィクション作品の問題を少し論じたあと、シノハラは、西村清和の議論を参照したあと、「想像するとは一体いかなる行為であるのか」という議論を始めます。
 そこではまず、「人物画を見てその人物のことをありありと思い浮かべることができる」ことの原因を「想像すること」に求めるライルの議論が提示されるのですが、はっきり言ってこれは、想像できるのは想像するからです、という議論にしか見えません。また、人物画(作品)制作の行為と、作品を知覚する際の行為とがごっちゃになっているように思われます。*1
 想像することを分析する際に、次に援用されるのはフッサールの像基体・像客体・像主体の議論だが、この紹介も何を言っているのかがよくわからりません。ここで言われている「対象」とは「知覚対象」のことと思われますが、知覚対象の「存在措定を欠くような把捉」がありうる、とはどういうことでしょう? 物質としての紙やインクや(像基体)の存在措定を欠く、というわけではまさかあるまいから、それらの形が何であるか(像客体)のことが言われているのでしょうか? 紙やインクやの存在を措定しておきながら、その形の存在措定は置かない、ということがありえるんでしょうか。とりあえずそれは無視して、「想像」について話をすすめてもいいのですが、インクの形が馬上の騎士であるという知覚は、すでにしてここで言われている、「実在性が提示される位相」を含んでいるでしょうから(馬“上”ってどこだよ! 絵は平面だろ!)、やはりそもそも、フッサールの議論じたいが間違っているように思えてしまいます。
 このへんで1つめの苦言を呈したいのですが、このあとのシノハラの論考にも、このようにさまざまな議論の紹介が登場しますよね(論の短さに比して多すぎるほどの引用・参考文献がついている)、しかしそれらの議論の妥当性が深く検討されることはほとんどない(唯一の例外が上記のサールに対する言及)。議論の妥当性を無視して、論者の名前の権威に頼って論ずるやりかた、とまで言い捨ててしまわないにしても、こうした方針をとるのであれば、それぞれの議論がシノハラの論の文脈のうちにどう位置づけられるのか、を明白にする必要があるでしょう。そのために批評のように強引かつ恣意的な引用を行うのでも、それはそれでいいんですが、そのように文脈を捏造する悪辣さも見られませんよね。はっきり言えば、最近読んだ本をかたっぱしからねじこんだように見えてしまいます。以前にも簡単に述べたことがありますが、批評の構成に必要なことの、というか、明晰に考えるために必要なことのひとつは、議論に不必要なことを入れてしまわないことです(書き漏らしたこと - kugyoを埋葬する)。*2


 ……ところが、驚くべきことに、このねじこみの特徴がかえって、シノハラの論考に説得力を与えています。これについては4節を読みながら詳しく述べましょう。

2. 作品世界と作品

 前節の最後で、論中で扱うフィクションを「あるフィクション作品を通して、想像・創造行為を行い、フィクション体験をする、この総体」として規定したシノハラは、続いてこの節で、フィクション作品が表現している、「作品世界」の本性について論じます。そしてその本性とは、「時間の継起がある」ことだというのですが、「作品世界内の存在」は「存在していない」のだとすれば、そこでの「時間の継起」というのはいったい何なのか、私にはわかりません。むしろこの「時間の継起」は、シノハラの注10からもわかるとおり、「体験者が如何に体験したのか」に関わることであって、つまり、作品世界における「時間の継起」などという考えかたそのものが、フィクション作品とはイギだけがある作品だというシノハラの論からすれば、そもそもまちがっていることを示しているのではないでしょうか。
 もちろん、「作品世界への没入」というのは、言葉通りのことを指しているのではないのだ、という抗弁はできるかもしれません。そうであればいっそう、「作品世界への没入」とはじっさいには受け手がどうすることなのか、を論じることが重要になるはずです。シノハラはこれを、2節の最後で「スタイル分析とでもいうべき試み」*3に丸投げしてしまいます。丸投げするならするでもいいんですが、スタイルを分析することによって「作品世界への没入」の分析ができると見込まれるのはなぜか、についてくらいは、一言触れてあってもいいのでは。


 さて、じつは、ここまでの1節・2節は、作品の時間性に注目することと、作品世界への没入を妨げるようなそんな特徴を備えた作品があることに注目することとを、次節以降の論の運びのなかで正当化するための布石にすぎません。そしてそのためには、以上のような議論が特に必要であるとはいえませんよね。語りに時間性があることは、論証されたのではなくとつぜん論中で前提としてされるのだし、没入についてもまたしかりです。論のおもしろさから言っても、むりに1節・2節を詰め込まず(カテゴリー錯誤や接続詞と論とのずれやがいたるところに見られ、急いで書いた悪文になってしまっている)、3節からはじめてしまってよかったのではないかと思います……ふつうの論考であれば

3. ゼロの時間

 確認しておきたいのですが、ここからの節でシノハラが行う分析は、そもそもいかにしてスタイルから作品世界が立ち上がるか、ということの分析にはなっていませんよね。言われているのはせいぜい、あるスタイルによって受け手がどのような感じを受けるか、ということの分析でしょう。たとえば、古川日出男『ベルカ、吠えないのか?』のスタイルとして選択される*4のは、「文体の音声性とリズム」なのですが、これによって、「読み手自身がイヌたちに語りかけるという状態」になるとシノハラは論じます。たしかにそうだと思います。しかしそれは、そもそもそのように語りかける相手としての「イヌたち」(作品世界)がどうやって立ち上がるか、については、何も説明していませんよね。
 このことを除けば、文芸批評として3節以降を読むことはじゅうぶん楽しいです。『聖家族』を手際よく要約し*5、『ベルカ』同様に「ゼロの時間」をキーワードとして読み進めていくことは、フィクション作品世界の特徴である時間性への反抗(というか、フィクション作品という時間性のないものと、フィクション作品世界という時間性のあるものとのせめぎあい)を予感させます。シノハラの言葉どおり、「ゼロという空洞とはまさに読者のための場所」であり、そこに読者がおさまることによって、無時間的なフィクション作品に時間が流れ出す(作品世界になる)のです。

4. 異質性がもたらす眩暈

 この節では、『叫』や『パンズ・ラビリンス』などの映画作品が取り上げられ、それらに出現する「意味を理解したり解釈したりすることができない」もの(バルトのいうpunctumですよね)が、受け手の作品世界への「没入を解除する」のですが、いっぽうでそのようなものが徹底的にイメージ化される(「過視化」)ことで、「没入の解除を引きとどめる」ことになる、ということが論じられます。このことは、フィクション体験の「能動性と受動性との交錯」が意識されることによって起こる、とされ、これによって引き起こされる「異質性による眩暈」こそが、フィクションのリアリティであるというわけです。
 さて、シノハラの論考が一種奇妙な説得力を帯びはじめるのはこの点からです。先に述べたように、シノハラが次々に召喚する議論は、何のために持ち出されたのかわからず、したがってある意味で「意味を理解したり解釈したりすることができない」ものになっています。ところが、単に論者のはなばなしい名前を列挙していく方針とは異なって、シノハラの議論のなかでは、召喚された議論はすべて、不要なところまでいちおう説明されてしまいます(シノハラの要約力がここでも光っている)。これはシノハラの言う「過視化」そのものです。つまり、うまく構成されていない要約の束であるという、論全体の構成そのものが、結果的にシノハラの論に「異質性による眩暈」を与え、異様なリアリティを帯びさせているではありませんか。

5. 世界の多元性とリアリティ

 いまの私の議論をまとめておきます。われわれはシノハラの論考に「没入」することはできないし、そこに「もっともらしさ」(整合性・無矛盾性・合理性)を見出すことも難しい。ところが、われわれはこの論考に関わりあうことによって、「体験そのものを変転させ」られてしまうことになります。
 「異質性による眩暈」を、シノハラは「現実感への介入」を引き起こすものと捉えています。記述体系(グッドマンのいう「ヴァージョン」)が切り替えられてしまうというわけです。しかしこの場合には、何についての記述体系が切り替えられたのでしょうか? この論考の構造じたいがこの論考に「異質性による眩暈」のリアリティを与えていることを思い出せば、われわれはいまや、その答えを手にしたも同然です。この寸評をここまで読み進めた読者には明白なことですが、この時点で、もはやシノハラの論考は、単なる“フィクションの分析哲学+作品論”というような品のいいかっこうをしたものとは見なせなくなってしまっています。シノハラの論考は、自身のスタイルを用いて自身についての記述を切り替えさせ、いまや一種の“フィクション作品”と化しています!

世界の中心で亜人

 「亜人間=キャラクターの亜人間としての自由と生を論じる」シノハラユウキの論考。
 伊藤剛は名づけの能力が低いので*6、伊藤の議論を援用した議論はたいていが読みづらい。たとえば、この論考からいくつかの部分を抜き出してみよう。

伊藤は周知の通り、キャラクターを「キャラ」と「キャラクター」に分けている。そして「キャラ」に対しては、「人格・のようなもの」という形容をする。

そして、本論が取り上げたいと思っているキャラクターとは、この「人格・のようなもの」である。

伊藤はキャラやサイボーグを総称して亜人間と称しているので、本論でもそれに倣おう。亜人間=「人格・のようなもの」=キャラという図式である。

 これらを比べれば、伊藤のせいで用語の混乱が起きているのは明らかだ。
 「キャラ」「キャラクター」についてはさておくとすると、第1節で論じられているのは、「表象・表現のレベルの亜人間と作品世界のレベルの亜人間」との区別である。前者の亜人間とは、人間を表す記号(の組み合わせとしての図像)のことであると、シノハラは述べている。ただの絵であるのに、「人格・のようなもの」(あるいは「傷つく身体」「死」「心」)を見られてしまうことを指して、亜人間という用語があてられている。いっぽう、後者の亜人間とは、クローン(綾波レイ)とかロボット(鉄腕アトム)とかサイボーグ(『GUNSLINGER GIRL』のトリエラ)とかいったもののことだ。とりあえず、世界内亜人間とでも呼んでみよう。
 ところで、じつは亜人間の区別は、この2つだけでは足りていない。このことを示すために、前者の亜人間の概念の一般化を試みてみよう。亜人間は、「人格・のようなもの」がそこに見出されてしまうことによって亜人間と呼ばれているのであったから、たとえば“生物・のようなもの”がそこに見出されるという場合には、“表象・表現のレベルの亜生物”という言いかたも成り立つ、ということになるだろうか?
 そうではない。「人格・のようなもの」は、まずその絵を人間(人格を持ちうるもの)の表象として見る(“人間・のようなもの”を見出す)ことができたあとで、はじめて見出せるものだ。したがって、この方針での一般化の試みは失敗する。そして、“亜人間”は以下の4つに区別しなおせることがわかる。
1. 人間を表す記号(シノハラのいう、「表象・表現のレベルの亜人間」)
2. 記号によって表された人間(“人間・のようなもの”)
3. 記号によって表された人間に見出される「人格・のようなもの」(シノハラのいう、「表象・表現のレベルの亜人間」)
4. 人間に似たもの(クローンやロボットやサイボーグなど。シノハラのいう、「作品世界のレベルの亜人間」)
 このうち3番めが「亜人間」と呼ばれるのは、それが「人格・のようなもの」だからであり、したがってこれはむしろ“亜人格”と呼びかえるのがわかりやすいだろう。
 さて、このように区別するのが正しいとすると、シノハラの言う「両義性」はどうなるだろうか? シノハラ自身はこれを、『GUNSLINGER GIRL』の登場人物のセリフを引きあいに出し、以下のように捉えている。

この両義性において、記号と人格の両方の特徴を持つ、亜人間=キャラなる存在が可能となる。

 厄介なのは、伊藤の言う「キャラ」が、記号それ自体のことを指すのか、そこに見出される「人格・のようなもの」のことを指すのか、があいまいであることだ*7。ただし、ここがあいまいであるとしても、シノハラの言う「両方の特徴」が理解できなくなるわけではない。
 上記の4区分を簡略化してみよう。
1. 記号
2. 表現された“人間”
3. 表現された“人格”
4. ?
 4. をどう簡略化できるだろうか? 人間に似たもの、とは、クローンやロボットやサイボーグやに限らない。地面に書いた線であっても、それを人間に似ているということはできる。似ているということによって(表象・表現の類似説!)、すべてのものは記号の機能を果たすことができる。サイボーグは人間を表象・表現する、なぜなら、サイボーグは人間に似ているから、というわけだ。つまり、はてなにはどんなものでも入りうるということになる。
 そうであれば、1. と4. とを区別することはできなくなる。人間に似たもの、ということがすでに、人間の記号として機能しうる、ということを意味しているのだ。すべてのものは記号の機能をはたしうる。シノハラの言う「両義性」とは、「記号と人格の両方の特徴」ではなく、ひらべったくない(ふつうは記号と見なされない)ものでも記号の機能をはたしてしまうことがある、ということのことだったのだ。シノハラは以下のようにも述べている。

小状況と大状況、日常と非日常、地球人と異星人といった、異なる質のもの同士を引き寄せ繋ぎ止めるという性質を亜人間はいやおうなく担っているのではないだろうか。

 このことを第7節でシノハラは、『鉄腕アトム』の初期エピソードや「シュピーゲル」シリーズやといった物語を論拠にして述べる。だが、そんなことを論拠として提出する前にそもそも、それを亜人間と呼んだ瞬間に、私たちはすでにして、指示するもの(記号)と指示されるもの(指示対象)と、という異なる質のものを、引き寄せ繋ぎ止めてしまっているではないか。
 シノハラは、この異質なもの同士の繋ぎ合わせに対して私たちは眩暈を感じるのだ、と論じている。しかし、こうして考えてみれば、この眩暈の正体は、記号と指示対象との結びつけはそもそもいかにして行えるのか(類似説は正しいのか*8?)、という問題から来るものだったことになるのではないだろうか。この問題を解くことこそ、まさに表象の哲学の探究である。この問題(違和感)は、「亜人間を、非人間と見なしたり、人間と見なしたり」することによって解消できるようなものでは確かにない。

ハイエク『市場・知識・自由』を読む (1)「個人主義」をめぐって

 珠州環による、ハイエク『市場・知識・自由』の第1章「真の個人主義と偽の個人主義」の解説。

ハイエクが「個人主義」を、個人というものをどうとらえるのか、という問題として設定している

のであれば、ハイエクはむしろ“個人論”などの語を使うべきだっただろう。“個人論”という問題に対して、「真の個人主義」と「偽の個人主義」との対立があるという図式のはずだ。語の問題はともかく、こうしてハイエクの「個人主義」という用語の意味を解きほぐすのが、このレポートだった。
 デカルトが「実践においてはむしろ、非合理主義的な慣習等に進んで従うことをよしとする人物であったと考えられる」というところは個人的に興味深く読んだが、これは時代的制約によるものかもしれない、とは思う。
 「個人を絶対と捉える」ことを「合理主義的」と呼び、「個人を社会的存在であると捉える」ことを「非合理主義的」と呼ぶのはさすがにやりすぎで、合理主義と絶対の個人との関係をもっと詳しく論じてほしかったと思う。また、せっかく同人誌なのだから、もっと絵を使って論じたらよかったのではないか。

ハイエク『市場・知識・自由』を読む (2)「価格メカニズム」と知識の利用

二○一○年代にWebサービスはあるのか?

新たなる神の顕現? ―2ちゃんねるにおける<神>概念について

*1:このへん、『心の概念』を読みなおしてから言っているわけではないが。

*2:ただし、つねに明晰に記述しなくてはならないか、というと、これはそうではない。

*3:スタイルとは「作品の外在的な特徴」のことらしいが、外在的ってなんなんだ? 統語論的・意味論的特徴のことか?

*4:特徴の選択のしかたは無数にある。触れ忘れたが、表象の類似説がおかしいのも、表象が何かに類似していないから、というよりむしろ、特徴の選択のしかたによって、表象はなんにでも類似してしまうから、である。たとえば、城の絵に似ているのは、城というより別の城の絵ではないか、という、これはグッドマンの議論、Language of Artを参照。

*5:この要約力を、いったん自分で立てた論に適用すれば、シノハラの論考はかなり読みやすくなると思う。

*6:たとえば、“キャラ”と“キャラクター”と、とか、“マンガのおばけ”と“ウサギのおばけ”と、とか。カテゴリーが異なるものを似通った名前で呼ぶのは、そのカテゴリーをごっちゃにして語ってしまう混乱を誘発しますよね。

*7:「キャラ」は1. 図像のことなのか、それとも2. “人間・のようなもの”のことなのか、それとも3. 「人格・のようなもの」のことなのか。 "「キャラ / キャラクター」概念の可能性"(『ユリイカ』06年1月号)での東浩紀夏目房之介との鼎談では、伊藤もここにブレを覚えていることが明らかにされている。このことからもわかるとおり、『テヅカ・イズ・デッド』をそのまま参照して「キャラ」「キャラクター」などの用語を使うことは危険だ。

*8:類似説にはいくつかの大きな問題がある。その1つは、論理的性質によるものだ。表象関係は対称的でないが、類似関係は対称的だ。つまり、ある絵がある城を表象しているというときでも、逆にその城が絵を表象しているとは言えないのに対して、ある家がある城に似ているなら、その城はその家に似ていると言える。さらなる問題については、Goodman(1976)のch.1を参照。