あなたのkugyoを埋葬する

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文学作品を読んで落ち着くんだ

 プログラムを働かせたまま読書しようとした時(目は4つもない)


 あ、ミクシィを更新したよ……。


 『麗しのオルタンス (創元推理文庫)』、この分野はもっと濃いのを期待しちゃうなあ。語り手・著者・編集者・翻訳者が注で争うくらいではまだまだ。ウリポの生き残りの手になる作品だそうだけど、もっと偏執的なものがよいよね。
 『バカカイ―ゴンブローヴィチ短篇集』は、ミクシィで感想を書いた。アンチ・物語のやりかたとしては、語りかた(ナレーション)を逸脱させること*1が挙がりがちだが、当然期待される物語内容を外していくこと*2というのもあって、『バカカイ』ではこちらが行われているように思える。私が海外文学に望むのはこういう路線の追究だ。
 いや、友人がゴンブローヴィチを論じるというので読んでみたんだけどね。
 『通訳 (海外文学セレクション)』は黒沢清『叫』を見ながら読了。荒涼感が表紙ともあいまっていい具合に心に残った。バカミス、と言って言えなくはない、というのは、よいバカミスに必要な(つまり、リューーーースイ的な)、閉塞から開放への反転があるから。1つの肉体に押し込められたあまたの言語のぶつかりあいが、最後に鯨たちの交信という壮大なイメージで昇華される、みたいな構成だったらもっとおもしろかったのに。
 『ヴァインランド』はまだ途中。注にいちいち立ち寄らなくても読んでいける(注で書かれるだろうことがところどころわかる)ことに気づいてからおもしろくなってきた。これまでの人生で吹き込まれた雑学のおかげか、それとも私じしんが知らずアメリカのカウンタカルチャーに浸って育ってきたせいかはわからないが。

*1:ナレーションの操作は最近、日本文学の一部で活発に行われていると思う。やっとおもしろくなってきた、という時代。

*2:これは最近の日本文学においては少なくなってきた気がする。もう期待されるような物語内容などというものはつぶしきったということかもしれない。