あなたのkugyoを埋葬する

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Stigmergy(創発とStigmergy)

 スティグマジーという発想のもとになったのは、生物学者Rabaudが導入した2つの概念、相互作用interactionと相互誘引interattractionとであるらしい(詳しくはTheraulaz & Bonabeau, 1999を参照)。
 相互作用とは、集合的行動のためには個体のふるまいが本質的である、ということを述べている。直近の生物どうしは、相互にふるまいを修整しているはずであるからだ。いっぽう相互誘引とは、同種の生物が相互にひきつけあう、という概念を指して用いられている。ところが、社会的動物のふるまいは、このような個体中心的な考えでは説明できないところがある。そこでGrasseは、社会的動物の共同と統制とは、個々の行動主体じしんに依存するのではなく、巣その他の構造によって特徴づけられるのだと考え、スティグマジーを提案した。
 スティグマジーは、さらに次のように分類できる(Wilson, 1975/2000, pp. 186-188)。すなわち、証拠構築型sematectonicスティグマジーと、目印ベース型marker-basedスティグマジーとである。
 確認しておけば、スティグマジーの基本的な意味は、環境の修整を媒体とした間接的なコミュニケーションであった。この環境の修整のしかたに着目した分類が、証拠構築型と目的ベース型とに対応する。証拠構築型は、物理的環境を修整することによるコミュニケーションを指している。単純な例は足跡である。足跡はそこを通った生物や通しやすい経路についての情報をほかの生物に提供しうるため、足跡を追うことはスティグマジー的なコミュニケーションと言えるが、足跡はフェロモンのような信号メカニズムというよりは、移動の単なる副産物である。いっぽう、目印ベース型は、信号メカニズムを介したコミュニケーションである。この信号メカニズムは、それだけでは目的に直接寄与しない(いちいちフェロモンを付置しながら餌を探すのはたいへんである)。
 このような分類のもとでは、生物の行動の多くが(証拠構築型)スティグマジー的コミュニケーションとして捉えられることになる。たとえば、外から見えるようにトイレの照明をつけておくことは、安全に用を足すという目的の副産物ではあるが、他のひとをしてその個室から遠ざけることになるため、証拠構築型スティグマジー的コミュニケーションとして捉えられる。スティグマジー的であることは、特殊なことではないのである(スティグマジーがこのようにありふれたものであるとすれば、濱野, 2009では、スティグマジー的であることそれ自体が新奇であるという主張をしているのではなく、さまざまな制度の設計をスティグマジーを考慮して行うべきだ、という、ある意味常識的な主張がなされていることになる)。


 いっぽう、Parunak(2005)によれば、スティグマジー的システムは以下のような特徴を持っている。
 1. 大局的な文脈や環境(仮想でもよい)について、スティグマジー的システムは、

  • 不特定多数の局所的環境によって構成されている。
  • 時間的展開を制御しているシステム内的な力学からは、部分的にしか観察できない。

 2. 行為主体Agentについて、大局的な環境内に住む複数の行為主体、あるいはその集団は、どれも、大局的知識を持たない。つまり、

  • 合理性は限定されたboundedものである。
  • ふるまいは自己組織化されている。つまり、確率的であり、適応的・動的である。

 3. 環境と行為主体との相互作用の結果、システムの構成要素からは予想できず、還元もできないような新奇な特性が現れる。

 アリの群れが経路探索を行う例は、確かにこれにあてはまっている。
 このような特徴づけのもとでは、行為主体が「照明をつけておけばひとは入ってこない確率が高い」と知っているトイレの例は、スティグマジー的ではないことになる。行為主体は大局的知識を持っているし、我々はシステムの構成要素からして、その知識を予測できそうだからである。
 しかし、ここで疑問が生じる。相互作用が複雑でありすぎるために予想ができない、というのはどういうことだろうか。それはむしろ、我々の無知を示しているのであって、我々が完全な科学的知識(と演算能力と)を手に入れれば、すべての相互作用の結果は予測できることになり、スティグマジー的と呼べるものはなくなってしまうのではないか。
 このような、「システムの構成要素からは予想できず、還元もできないような新奇な特性が現れる」ことを、「特性が創発した」、と言うことがある。次節ではこの創発について述べる。