あなたのkugyoを埋葬する

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Haslanger, "Feminism in Metaphysics"(in: Fricker and Hornsby ed., 2000)

 フェミニズム形而上学についての紹介論文を紹介しますね.ただし,現代のアングロサクソン形而上学は何をやっているのかについての初歩的な解説も含む(アリストテレスのやってた,「アポリア型」の形而上学ってことになる)ため,内容が若干薄いかな.


話は以下の節からなる.

Introduction

 フェミニズム形而上学というのは,互いに批判し合ってきたものの組み合わせに見える.ほんとうにそうか?

Androcentric versus gynocentric metaphysics

 形而上学が男性中心主義的だという批判を紹介したあと,その批判じたいにフェミニズムから出ている批判(女性経験だって多様だ,という第3波フェミニズム流の批判)を紹介し,女性の思考に共通の内容というだけでは,ジェンダ特有の媒介力*1を特定するのは不可能だし、女性中心的観点の特定もできていないだと述べる.また,女性のほうが実在にましなアクセスを提供できるのか,そもそも実在へのアクセスなどだれにもできないと言っているのでは,という疑問を出し,次節につなげる.
 形而上学を男性中心主義だと批判した例としては,

  • Merrill and Jaakko Hintikka(1983)の,「形而上学は内在的・本質的性質の探究にこだわりすぎ,なぜ関係的性質への還元よりも内在的性質への還元のほうがわかったほうがよいと言えるのか」というものと,
  • I. Young(1990)の,「内部/外部などの様々な二分法が妊娠経験によって揺らぐので,こうした例にも注目すべき」というものとがあがっている.
Feminist anti-foundationalism

 実在に直接アクセスできなかったら,形而上学は不可能になるか? というと,むかしはいろいろあってフェミニズムからの基礎づけ傾向批判も当てはまるけど,現在のアングロサクソン形而上学はholisticでfallibilisticなものなので,直接のアクセスも不要だし,他分野の主張の基礎づけを目指すものでもないと紹介.ただし日常的な例を選ぶ際に性差別的バイアスがかかっていないかどうかには注意を促している.
 なお,ここで紹介されている現在の形而上学の方法はaporematicと呼ばれている.これは大略以下のようなもの:

アリストレテスの方法は、アポレマティックである。アリストテレスが言うには、主題となる事柄のもつ諸困難についての明瞭な見通しから、論述を始めること、そして、主要な問いの各々について、賛成の側と反対の側とについて偏らない考察を以って論述を始めることが肝要である。

http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/metadb/up/kiyo/AA12025285/Ann-ResProjCent-CompStudLogic_2_9.pdf# 赤井清晃, ”アリストテレスにおける推論の必然性とアポリアー”, 2004.
Feminist metaphysics: natural and social kinds

 J. Butler, *Gender Trouble*(1990)や*Bodies That Matters*(1993)の主張の読みを検討したうえで,自然種についてのButlerの主張が,いろいろなタイプ実在論と整合することを見る.たとえばこんなタイプ実在論がとれる:

  • 相対的に見て客観的な統一体がたくさん実在する.男女の区別はその1つに過ぎないが,それを社会的に特権視しているだけ.ある集合が我々にとって重要なものだとしたら,それは我々のほうで集合に用があるからだ.
  • 男女のカテゴリーは重要な意味での客観的統一体とは言えない(政治的にはそう教えられてきたけれども)
  • 男女の区別は基礎的だが,それが道徳的・政治的区別の基礎づけにはならない
Conclusion

 前節は,フェミニズム形而上学の議論の例になっていた.
 フェミニズム的議論というのは,以下のようなものではない:

  • 女性の観点の特権を主張する議論
  • 現実へのアクセス方法は,女性と男性とで異なるとする議論

 ほんとうは以下のようなもの:

  • 心や実在への見解は,思考と行動との抑圧されたパターンを維持したり打ち消したりする.これがどう起こるかを考慮した議論

 また前節は、「アポリア型」形而上学の議論にもなっている.つまり,

  • 抑圧的制度のもとでは,特定の政治的取り決めが自然に埋め込まれているとか,世界の実在に基づくとかと誤認してしまう.

しかし

  • だからといって,世界の真のありようなど存在しないとか,それを知る方法はないとか述べるのであれば,ほかの正当化された主張とそぐうのかどうかの検討が必要になる.

種について検討してみてわかったのは,フェミニズム的な疑いから一気に種についての非実在論へ走るには及ばないということ.フェミニズム形而上学(何があるのかについてフェミニズム的に探究すること)は可能だということがわかってもらえたかな?


 以下は私見フェミニズム形而上学形而上学たるゆえんは,フェミニストの主張の形而上学的基礎づけにあると考えていたけれども,反省的均衡法はここでも用いるべき.つまり,フェミニズムの主張をちゃんと受け入れられるような形而上学的立場を検討する必要がある.
 今回見た論文は後者を検討し,タイプ実在論の側でフェミニストの主張を受け入れるための方策をいろいろ提案した.けれども,それらの提案のうちいくつかは,形而上学的に無理があるかもしれない.そして,そこで無理があるかどうかを考える際に,直観を支える根拠として出す例に気を付けるべき.哲学者が当然の2分法だと考えてきた例に対し,フェミニズムは少なくとも境界事例を提供できることがあるし,場合によってはそれを境界(非中心的事例)と考えることにこそバイアスがかかっているのかもしれない.*2


 ご参考:

The Cambridge Companion to Feminism in Philosophy (Cambridge Companions to Philosophy)

The Cambridge Companion to Feminism in Philosophy (Cambridge Companions to Philosophy)

論文はこれのpp. 107-126.

SEPのこっちの記事では,フェミニズム形而上学の例として「概念の構築」「対象の社会的構築」(構築と構成との話も)、「関係的性質」「二元論的傾向への批判」があがっていますね.

この記事まえからあったっけ……(2004年からあります)

*1:the mediating force of gender

*2:これを社会構成主義を加味しただけの通常形而上学と呼びたければ呼んでもいいと思う.しかし,社会構成主義は分析の方法であり,フェミニズムは分析の方法も一部含むかもしれないが基本的には話題で定義される.この論文だと前半節はフェミニズム形而上学で,後半節が社会構成主義フェミニズム形而上学と言えるかもしれない