あなたのkugyoを埋葬する

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ロボットを恋人にできるが…… ―人工物・機能・性的欲求

 先日開催されました第5回応用哲学会にて,楽しみにしておりました発表のひとつが,先日資料公開されました.西條玲奈さんの"ロボットを恋人にできるか"というものです.

 今回の応用哲学会の論題のなかでも相当に刺激的かつ“応用的”な問題に正面から取り組まれており,たいへん触発されます.公開感謝いたします.
 この公開資料だけで議論・反論するのに問題なしとは思いませんが,3点ほど,気になって考えていることがあります.

“人工物に対する愛着が,恋愛でもあることはありうるか”

 まず,扱われている問いを,「ロボットを恋人にできるか?」というややナイーヴな形から,資料中で精緻化されているとおり,“人工物に対する愛着が,恋愛でもあることはありうるか”という形に変えておきましょう.この問いに対してとられているアプローチは,次のようです:
1: 恋愛とは何か定める.(なるべく薄く,かつ,ほかの種類の愛情と区別できるようでありながら,常識と反しないように)
2: 人工物に対して,1で定義したような恋愛が可能であることを言う.
 資料中で哲学的に重要に扱われているのは主として1のほうであり,2のほうはさらりと触れられる程度のようです.じっさい,1の定義のしかたにもよりますが,2はわずかでも経験的な証拠があれば言えることですね.
 しかしながら,私は最初のナイーヴヴァージョンの問いを見たとき,このアプローチを考えることなく,「ほぼ自明に,できる」と考えました.ほぼ自明にとは言ったものの,いちおう論証の形にしておきましょう.私じしんは現在では,この論証はそれほど自明ではない場合があると考えているので,それがどういうことかを示したいのです.
 論証は2つあります.

インスタントな肯定的論証1:われもロボット論証

 私の1つめの論証は次のようです.
s1. 私たちは私たちと恋愛関係に立てる.
s2. 私たちとロボットとに,違いはない.
s3. したがって,私たちはロボットと恋愛関係に立てる.(and vice versa.)
 この論証(「われもロボット論証」と呼びます)において,1が自明であると考えるひとにとっては,恋愛の定義はまったく関わってきません.しかし,2.の前提については,説明が必要でしょう.
 私は最初,私たち(ひと)とロボットとのあいだに,違いはないと考えました.これは,滑り坂論法によって示すことができます.ひとの一部を(ひとの要件が損なわれないように)人工物で置き換えていき,最終的にすべてのパーツが人工物となったとしても,つまりロボットと何ら差異がなくなったとしても,やはりひとだろう,というものです.
 しかし,この論法には,明らかに致命的な穴があります.滑り坂の過程で,ひとの要件が壊れる瞬間があるだろう,というのがそれです.極端な論者は,体のパーツが一部でも置き換われば,同じひとではなくなるし,一部でも人工物と置き換われば,ひとですらなくなる,と言うかもしれませんが,この極端な反論をさておいても,すべてが人工物になった場合,(例えば記憶が重要な点で連続していても)それをひととは認めない,という直観を持つひとは多いかもしれません.
 さあ,そこで,人工物(artifact)の定義が気になってきます.かつらやコンタクトレンズは,毛髪や角膜のかわりに使うことができますが,人工物と見なしてもよいかもしれません.輸血された血液や,培養した皮膚などは,人工物でしょうか.人工サプリメントを食べることで伸びた骨はどうでしょう.人工物の定義としては,“だれかが作ったもの”をひっくり返して“作った者として適切なひとを言えるもの”という定義がありますが,私が計画してコラーゲンを肌に塗り,結果として保湿された肌が透明感を増したら,そのたまご肌の作者は私だと言えないでしょうか.
 人工物の定義があいまいであれば,おそらく滑り坂は成功し,“人工物に対する愛着が,恋愛でもあることはありうるか”という問いは,ほぼ自明に肯定的に答えられそうです.したがって,この議論を有意義に進めるためには,“人工物”とは何かについて暫定的にでも決めておく必要があったと思います.

インスタントな肯定的論証2:山岡論証

 2つめの論証はこうです.これも,恋愛の定義を回避できるかのように見える論証です.
 哲学者が,「恋愛の定義とはこうだ.こういうことができなければ,恋愛関係には立てない.したがって,ロボットは恋愛関係には立てない」と言ったとしましょう.ロボット技術者は即座に,次のように言い返せます:「わかりました.明日来てください,そういうことができるロボットを見せてやりますよ」.このように,恋愛の定義として,被恋愛対象となる側の能力を用いた場合,どんな定義を持ってくるかに関わらず,「そういうことができるロボット」を作ることによって,“人工物に対する愛着が,恋愛でもあることはありうるか”に肯定的に答えることができてしまいます.この2つめの論証は「山岡論証」と呼んでおきます.
 例外は次の場合です.1つは,ロボットであるかぎり絶対に不可能な能力を指定することです.“命令に逆らう”“命令にないことをする”などは,残念ながらこれに当たりません(ところで,逆に,「命令」の定義を変えて,たとえば“因果法則に逆らう”“遺伝のプログラムに逆らう”などとした場合は,ひとであってもこれを満たすことができなくなってしまいます).ロボット技術者はいつでも,事前に指定した命令をまったく行わないロボットを作ることができます(「指定した」の意味にもよりますが).こんな能力として,どんな候補があるのか,私にはちょっと思いつきません.
 2つめの例外は,能力と機能とを区別することによって得られます.ロボット技術者は,原理的にどんな機能でも,ロボットに据え付けることができます.しかしながら,そのように目的をはっきりさせて据え付けられた能力は,やはり機能でしかありません.いっぽうひとには,目的がはっきりしていないために機能とは言えない(志向性を持たない)が,それでも能力であるようなものが備わっているかもしれません.もしこんな区別が有効であるとしたら,これこそロボットに据え付けられない能力ではないでしょうか.
 もちろん,ランダム性を取り込んだ設計アルゴリズム遺伝的アルゴリズムとか)によって,目的なしの能力を持ったロボットを生み出すことは可能だとは思います.そんなロボットには,恋愛関係におけるほかの要件が満たせないおそれはありますが(一貫性とか?),それが満たせたとしても,それでもやはり何らかの目的に沿ったロボットができているのだ,と言う余地はあるかもしれません.
 そこで,2つめの「山岡論証」にとって気になるのは,そもそも上記のような,機能と能力との区別ができるかどうかです.生物学の哲学においては,目的論的な観念についての議論があるので,それが参考になるかもしれません.私じしんは,志向性についてのスワンプマン論法を下敷きにして,この議論を考えています(ここでは,ひとのほうがスワンプマンですが).
 この2つめの論証は,厳密に言えば,発表資料と関係ありません.発表資料で扱われている定義においては,被恋愛対象には何の限定もないからです.しかしながら,ナイーヴヴァージョンの問いに対する即座の反応として,被恋愛対象にも何らかの制限を課す案が出るだろうと考え,ここに書くことにしました.この2つめの論証は,ナイーヴヴァージョンの問いに対して人工物を弾くような制限をかけようとする反論者に対し,再反論として働くだろうと思っています.

もうひとつの問題:何をしたら靴に性的欲求を抱いたことになるか

 さて,上記2つの論証は,人工物概念,機能概念の分析によっては,うまくいかない可能性があります.私としては,この2つがうまくいかなくなってはじめて,恋愛の定義といういささか厄介な問題に取り組みたく思っています.
 何が厄介かと言えば,1つには恋愛概念が明らかに社会的・文化的にまちまちであり,いかに薄い定義(発表資料では「恋愛の主観的定義」)を持ってきたところでうまくいかないだろう,というのが懸念されます.もちろんこれは,適当に対象社会・文化を区切ることで解消できるとは思いますが,いっぽうで薄い定義はかなり寛容な定義になるので,区切りかたによっては問題が起きそうです.*1また,「恋愛の主観的定義」では,「xはyを恋愛の対象とする」の要件として,「性的欲求の対象とする」というのを挙げていますが,性的欲求が失われたらそれは恋愛ではなくなるのか,肉体的にみて性的欲求が持てないということがありうるとして,そのひとは何かを恋愛の対象とすることはまったくできなくなるのか,なども気になります.
 しかしながら,上記のような,性的欲求がない例において,少なくとも主観的に,それがほかの種類の愛情と区別がつかないかもしれないことぐらいは,認めてもよさそうです.むしろ私が気になるのは,性的欲求があると言えるかわからない場合のほうです.
 私の薄桃色のピンヒールを考えてみましょう.私がそれに愛情を持ちうることは,発表資料中でも認められています.私は毎日それを履くか,あるいは磨きます.ほかの靴と比べてもたいへん丁寧に扱い,何かの拍子にそのピンヒールがなくなると,取り乱して探し回ります.私は靴一般ではなく,そのピンヒールだけを愛情の対象としているのです.さて,私はここで,このピンヒールと恋愛関係に立ちたいと思います.私はどうすればいいでしょうか.どのような欲求を持てば,それが ピンヒールに対する 性的欲求だということになるでしょうか.私にはここがわかりません.*2
 もちろん,性的欲求のほうも,愛情同様に定義未決としておくことはできます.しかし,定義未決の概念を2つ使ってしまうと,それらがほんとうに別個の概念だということを示すのが,やや難しくならないでしょうか.*3

  • (SEPにFetishismの項目がない)

いったん,おわりに

 “人工物”“機能”“性的欲求”,これらはいずれも,それだけで探究しがいのある概念であり,逆から言えばこの発表資料は,これらの問題に目を向けさせてくれるという点でも,非常に興味深いと思います.私としては,まずこの3つの概念に暫定的にでも定義をしたうえで,改めてこの議論を考えたく思っています.いま考えられる論点としては,そもそも恋愛とは関係なのか(xはyを恋愛の対象とするとか,yに対する恋愛関係に立つとかと言えるのか)などが気になります.特に,機能概念の分析については,ジェンダを機能的性質と考えるC. Wittの議論(2012)に関連して,再度勉強中です.
 あと倫理的問題については,私は恋愛がそもそも倫理的に問題があると思っており,資料中で挙がった問題点はすべて(3にも)おおよその恋愛に当てはまると思います.その点を付記したうえであれば,発表者にまったく賛成です.

*1:私としては,このことをもって,恋愛概念をいったん放棄し,かわりにたとえば愛着概念だけで回せないかどうかを,先に考えてみたい気もします.

*2:あと,ゲティアケースみたいにして,愛しているがそれとはぜんぜん関係なく,例えばそれと知らずに暗いところで毎晩ピンヒールを口に含んでいる,みたいな場合も気になります.

*3:あと,抽象概念に対する愛情もありだとなってるけど,抽象概念に対する性的欲求はどうだろうか.また,一部のポリアモリーは他人の恋愛関係を愛し,性的に欲求すると言えなくもないと思うが,ポリアモリーが他人の恋愛関係と恋愛している,というのは相当不可解だろう.ふつうは,3人なら3者間の恋愛,と見る.