Jenkins 2018, "性同一性の説明に向けて"
Nottingham大で哲学を教えているKatharine Jenkinsが,トランスの権利運動によく登場する性同一性[gender identity]とはなんのことかについて説明する論文,Jenkins 2018を書いている.この論文は,哲学業界で最近流行している,概念工学という研究ジャンルの一例でもある.
トランスの権利運動に対して,ちょっと気の利いた人間なら思いつく疑問がいくつかある.私はこの論文をそういう疑問への応答として読んだ.たとえば,この論文を読むとおそらく,トランスの権利運動が,必ずしも性同一性についての自認を絶対視する必要はない,ということがわかるだろう.また,以下のような立場をとりたいと考えるなら,この論文をよく読み,応答を考える必要があると思う:
- 性同一性や性自認1といった怪しげな概念を使っているのだから,トランスの権利運動はばかげているにちがいない.
- トランスの権利運動は,現状の性規範を絶対視しないと成り立たないのだから,性規範を批判しようとするフェミニズムとは相容れない.
- トランス女性の主張を真に受けるなら,女性という被差別的な立場に自らを置こうとしていることになり,不可解だ.なにかべつの悪しき目的があるはずだ.
さらに,ミスジェンダリングとは何をすることなのか疑問を抱いているひとにも,この論文はある程度理論的な助けになるだろう.というのも,ミスジェンダリングは当人の性同一性に反した扱いをすることだが,性同一性に反するとはどういうことか考えるには,そもそも性同一性とはなにかについて,いくつかの立場を検討する必要があるだろうからだ.
他方で,もちろんこの論文は万能ではない.たとえば以下のような主張に対して,この論文はたいした回答にはならないかもしれない:
- 性同一性という概念をうまいこと精緻化できるとしても,この概念によって生じる害のほうが大きい.トランスの権利運動は性同一性という概念を捨て去るべきだ.2
- トランスの権利運動は性同一性以外にもいくつかの概念を用いている.それらの概念のうちどれかに不整合がある.
- トランスの権利運動は性同一性以外にもいくつかの概念を用いている.それらの概念が性同一性と齟齬をきたしており,運動は全体としてやはりおかしい.3
トランスの権利運動に対しては,運動じたいに内在的なおかしさがあるという批判だけでなく,もうちょっと外在的な批判もありうる.この論文はそうした以下のような批判にも答えるものではない:
- トランスの権利運動は,性差別的な犯罪者を利するという有害な副次的影響をもたらすから,運動じたいが整合的であろうとも,トランスの権利を制限することは許容される.
- トランスの権利運動の理屈は一見整合的だが,それは大義名分にすぎず,トランスは本心では悪質なことをもくろんでいるにちがいない.
- トランスの自殺率が高いとしても,そういう軟弱者は権利主張なんかに値しない.
- あるトランスが侮辱的な発言をしたが,権利運動のなかでそうした発言は非難されていない.侮辱的な人間とつるんでいるひとびとの主張に耳を傾ける必要はない.4
まず,Jenkinsのここでの主張を,哲学者向けに箇条書きでまとめておく.
次に,性同一性という概念に怪しげなことがありそうだと思われるときなにをすべきかについて,Jenkinsが行ったことを説明しながら私見を述べる.
そして,性同一性を(現状どう理解されているかとは別に)どう理解すべきかについて,Jenkinsが推している「規範への関連づけ説」を解説する. そのなかで,規範への関連づけ説への批判で特によく考えるべきだと思われる点を1つ紹介する.具体的には,この説だと(あるいは,トランスの権利運動を真に受けると)トランス女性は自らを差別するよう要求していることになるが,そんな要求を真に受けることはできない,という批判だ.この批判にJenkinsがどう答えているかを見る.
最後に,この論文からやや離れて,トランスの権利運動について,あるいはなんであれ運動について理論的に検討したいひと向けに,私の考えを書く.
Jenkinsの主張
Jenkinsの議論を箇条書きでまとめると,このようになる.
- トランスの権利運動の目的がうまく果たせるように,「性同一性」という概念の定義を洗練すべきだ.
- トランスの権利運動の目的とは,トランスの権利を促進することと,トランスフォビアに対抗することとである.
- この目的を果たすために,目標概念[target concept]としての性同一性の定義は6つの条件を満たすべきだ.トランスの権利運動において性同一性という概念に求められている3つの条件と,その要求を満たすのに役に立つ3つの条件とがある.
- 性同一性は重要で,尊重されるべきだ,という考えがまともになる必要がある.
- 性同一性には倫理的な一人称特権があるという考えと両立可能である必要がある.
- トランスのひとびとのなかには,性同一性に基づいて性別移行や関連したヘルスケアを受ける必要があるひとがいる,という考えと両立可能である必要がある.
- 定義は明確で非循環的である必要がある.
- 性別二分法的な性同一性だけでなく,ノンバイナリーな性同一性にも適用できる定義である必要がある.
- 現行の性規範や社会構造への,広い批判と両立できる必要がある.
- 性同一性の哲学的定義として,既存の学説には,傾向性説,自認説,規範への関連づけ説がある.このうち6つの条件を満たせるのは,規範への関連づけ説だ.
- 傾向性説(McKitrick 2015)は,性についてのどんな規範に従う傾向があるか,によって性同一性を捉える立場だ.だが条件1と条件6との両立に問題がある.性のステレオタイプへの批判を認めるならば条件1が守られず,認めないのは条件6に反してしまう.
- 自認説(Bettcher 2017)は,当人が「男性である」などと真摯に表明することを性同一性と捉える立場だ.自分の性同一性についての表明がなぜ特別に重要なのかを説明しないかぎり,条件1や条件3を守れない.
- 規範への関連づけ説は,性についての規範のうち,どんなものが自分に関連づいていると感じるのか,によって性同一性を捉える.
- 規範への関連づけ説には3つの批判があるが,応答できる.
- 批判1: シスジェンダを規範とする説だ(Andler 2017)
- 批判2: 性同一性についての自身の知識に特別な権威を認めることも条件に入れるべきだが,それを認められない(Bettcher 2017)
- 批判3: トランス女性は進んで差別を受ける地位へと自分を貶めるおかしなやつということになってしまう(匿名の差読者).
- 議論ははじまったばかりであり,考慮しきれていない倫理的・政治的に重大な考慮事由があるかもしれないので,規範への関連づけ説は決定的な結論ではなく,暫定的な主張にとどまる.だがトランスの権利運動の目的を共有しつつ,この結論に同意しないならば,以下の3つのうちどれかを選ぶ必要があることは言えた.
- 性同一性において目標概念の定義が満たすべき6つの条件のどれかを拒否する
- 性同一性についての既存の立場が6つの条件をぜんぶ満たすと主張する
- もっとよい立場があると主張する
怪しげな概念に基づいた運動とどう付き合うか
この論文が扱うのは「性同一性」という概念だ.まず,多くのトランスの権利運動において,この概念が重要な役割を果たしていることが示される5.ところが他方で,この概念の内実はそれほど明らかではない.
明らかでなさの特徴としてJenkinsがここで挙げるのは,循環性だ.「性同一性」という概念の定義には循環が含まれており,それによって定義を理解するのがむずかしくなってしまっている,というのがJenkinsの主張だ.どういうことか.
男性という性同一性を備えている,というのはどういうことだろうか? よくある答えは,自分が男性であるという感じがすることだ,というものだ.つまり,男性という性同一性を,男性であるという感じで定義したわけだ.Jenkinsはこれを「民間の」概念の定義と位置づける.6
では,その定義に出てくる「男性である」とはどういうことだろうか? そこで,男性という性同一性を備えることだ,と答えてしまうと,循環が生じる.性同一性とは何かがわからないから定義をきいているのに,その答えにまた「性同一性」が出てきてしまうと,性同一性とは何かがわからないままに終わってしまう.7
このことじたいは,わざわざ哲学者に教えてもらうまでもなく,性同一性についてちょっと考えたことがあればだれでも思い至ることだと思う.トランスの権利運動(その他,どんな運動でも)が拠りどころとしている概念に哲学的な循環が見つかることは珍しくない.だが,ここが重要なところだと思うが,そのときとれる態度は2つあるだろう.
- 哲学的分析によれば,この運動が拠りどころとしているのは,循環した無内容な概念だ.だから,その運動の要求するところなんか,まともに取り合わないでおこう.
- 哲学的分析によれば,この運動が拠りどころとしているのは,循環した無内容な概念ということになってしまう.だから,運動の目的をうまく満たすような,べつのもっと哲学的に洗練された定義を提案しよう.
どちらの態度を選ぶべきだろうか?8 Jenkinsは後者を選ぶが,前者を選ぶべきではないかと考える読者のために,ここで少し補足しておきたい.
前者は,運動が目指すところやほかに利用している概念などを無視して,ただ循環やその他の哲学的難点を見つけるだけで,運動そのものを拒否できるという点で,おおざっぱではあるが効率的だ.そして世の中にはたくさんの運動があり,我々ひとりひとりが生きる時間はそれほど多くないのだから,すべての運動に真摯に取り合っているわけにはいかないし,そうできるふりをすべきでもない.なんらかのおおざっぱな基準で運動をふるいわけるのは,とがめられるほどのことではない.
ただし,哲学の吟味に耐えることを目的としていない定義というのは世のなかにたくさんある.前者の態度は,それをむりやり特定の(哲学の)基準で評価し,その要求水準を満たしていないかぎり受け入れない,という,いささか専横な態度でもある.
そして,いったん哲学の議論をはじめたからには,そうした思考の節約という実践上の理由だけで,運動ぜんたいを切って捨てるのはむずかしい.これはなにも権利運動だけに限った話ではない.たとえば形而上学の分野では,「もの」という概念を素朴に捉えた場合,さまざまな不整合が生じることが知られている9.だが哲学において,不整合を理由に「もの」という概念を放棄してしまうことだけが唯一の選択肢ではないし,「もの」という概念を使った実践はみんなばかげたものだとして棄却することも要請されない(そういう選択肢もあるにはあるが,ほかに選択肢があるというのが重要だ).民間の概念を暫定的な出発点として,不整合のある箇所を削ったり条件をつけたりといった哲学的な洗練を行い,よりましな定義を探っていくのは,哲学のごくふつうの作業だ.この作業が最初から済ませてある概念でなくては議論に値しないというなら,そもそも哲学者の仕事などなくなってしまうだろう.
規範への関連づけ説
Jenkinsの推す規範への関連づけ説は,Xとしての性同一性を以下のように定義する.
SがXとしての性同一性を備える
iff.
Xという性の集団として階級づけられたひとびとに向けて,そういう階級に特徴的な社会的・物質的現実をどう切り抜けるか指導する,いわば「地図」を考えよう.Sには,そういう内なる「地図」が形成されている.
ややわかりにくいが,これは要するに,現状の性についての規範のうち,どんなものが自分に関連づいていると感じ経験するのか,によって性同一性を捉える,という定義だ.たとえば,すね毛を処理するべし・処理すべからず,女子トイレに入るべし・入るべからず,フォーマルな場ではドレスを着るべし・ネクタイを着けるべし,のように,性に結びついた規範はさまざまある.そのうちどれが自分に向けた指令になっていると感じ,どれは自分と関係ないと感じるか(内なる「地図」)によって,性同一性を捉えようというわけだ.
そしてこの,この規範が自分に関連づいている[relevant]とか,この規範は自分に向けたものであるとかいう点が重要だ.自分に関連づいていると感じる規範がどれであるかと,その規範に実際従っているかどうかとはべつのことだ〔ここが傾向性説とはちがう〕.自分に関連づいていると感じる規範に抵抗を感じたり,批判をしたり,あえて従わなかったりすることは,特におかしなことではない.これにより規範への関連づけ説は,現状の性規範を絶対視してしまっているじゃないか(条件6を満たしていないじゃないか)という批判をかわすことができている.
規範が自分に「関連づいていると感じる」ことと,実際に従いたいと感じることの区別は,微妙ではあるが重大だ.トランスの権利運動に対するよくある批判として,次のような両角論法が指摘されることがある:
- トランス女性は,女性に関連づけられた規範に従わないならば,女性であるとは言えないので,女性としての権利要求によって性差別に荷担している.
- トランス女性は,女性に関連づけられた規範に従うならば,そうした規範を無批判に受け入れており,女性としての権利要求によって性差別に荷担している.
このジレンマからは,トランス女性はトランスの権利運動のもとで必ず(強い意味で)性差別に荷担している,という帰結が出てきてしまう.
しかし,Jenkinsのような規範との関連づけ説が提示している区別を導入すると,こんな帰結は回避できる.以下のように言えるからだ:
- トランス女性は,女性に関連づけられた規範に自分も関連づけられていると感じているから女性であると言えるが,女性性に関連づけられた規範を批判できるので,必ず性差別に荷担しているとは言えない.
規範に対するこうした態度の区別は,哲学になじんでいるひとには,内在的理由と外在的理由との区別からしぜんに出せる帰結だと思う.
たとえば(これはJenkinsの挙げている例だが)すね毛を処理するかどうかについて,男女の規範は大きく異なる.女性としての性同一性を備え,そのためにすね毛を処理すべきだという規範が(処理すべからずという規範よりも強く)自分が服するものだと感じていても,実際にはすね毛を処理しない,ということはまったく不自然ではない.規範を破ったことで居心地の悪さを覚えることもあるかもしれないし,不当な規範に抗ったことを誇りに思うかもしれないが,そのどちらも,女性特有の規範に従うべきだと感じることと両立する.
なお,ここでの性についての規範の説明には,Haslnager 2012aのような社会的階級としての性説が採用されている.つまり,女性という性が従属的な地位に置かれた社会役割であることを前提にしている.性同一性についての規範への関連づけ説にとって,性がどういうものか(どういう社会役割か,あるいは,そもそも社会役割なのか)についての説明はオープンでありうるが,女性が従属的な地位に置かれていると認めたとしても,女性としての性同一性にしたがった性の再割当を求めるトランス女性の要求は,自分を差別せよという要求とは区別できるし,合理的な要求でもありうる.
ときどき,トランス女性の権利要求を真に受けると,自分を差別するように要求していることになってしまうから理解できないとか,だからトランス女性はべつの悪しき目的を隠すために詭弁を弄しているとしか考えられないとかいう主張が見られる.だが,そのような批判は,性同一性について,そして性同一性の尊重について筋の通った説明が得られれば,論拠を失うことになるだろう.
トランスの権利運動はどれくらい重大か
ここで,たしかにその区別はできるかもしれないが,単に規範への関連づけを感じたり経験したりするということだけでは,けっきょくそれをおおごととして扱うには及ばない,という反論があるかもしれない.
反論はおそらくこんなふうになる.なるほど,そうした関連づけの感覚や経験は,その規範に従うかどうかその場その場で決断することよりも根深いものだから,おそらく本人が簡単に変更したり捨てたりできるものではないだろう.定義のなかに,「形成されている」というくだりがあることを思い出せば,当人の思いなしひとつでどうにかなることではなく,社会変革や肉体的手術を経なければ,関連づけの経験を捨てることは難しいのかもしれない.だが,社会や周囲の人間が,その経験によく配慮しなければならないのはなぜだろうか.当人の経験していることが,現実とズレていて苦痛を感じる,ということはじつによくあることだ.たとえばKapusta 2016が言うように,ミスジェンダリングは羞恥や不安や抑圧を与えるだろうが,我々はほかにもさまざまなことで羞恥や不安や抑圧を感じており,そしてそれを即座に不当だと考えるわけではない10.規範への関連づけ説は,性同一性を尊重することが重要だというトランスの権利運動の主張を説明できる(条件1を満たせる)だろうか?
これについてJenkinsは2つの論拠を挙げている.
1つめの論拠は,Bierra 2014が指摘するように,当人が規範とどう付き合うかについて周囲から継続的に誤解を受けていると,自分の意図を理解してもらううえでの権威が剥奪されていってしまうという問題が生じるから,というものだ.たとえば(これもJenkinsが挙げている例),トランス女性が大学の卒業式で,卒業式らしいフォーマルな格好を意図してドレスを着るとしよう.周囲がそのトランス女性の性同一性を尊重しない場合,それは卒業式らしいフォーマルさをむしばむ,目立ちたがりなふるまいとして扱われてしまうだろう(おまえはフォーマルな場ではドレスではなく男性向けスーツを着るべき人間なのに,というわけだ).意図についてのこういう誤解にいつもいつもさらされていると,深刻な社会的無力感に至ってしまうだろう.
とはいえ,性同一性にかぎらずたいていの場合,我々は周囲にあまり意図を読み取ってもらえないのだから,その程度のことで無力感などと言うのは大げさだ,という再反論はできるかもしれない.性同一性について誤解を受けるなんてささいなことなのに,トランスの権利運動の要求は強すぎる,と言われることはあるかもしれない.
ここで注意したいのは,ささいな誤解かどうかの基準はなにか,ということだ.みんなが気軽にやっていることだからとりわけ非難に値したりはしない,というのも,「ささい」の意味の1つではあるだろう.だが,その誤解が原因と見られる深刻な害が統計上見つかれば,気軽なことだから運動までして抵抗するほどのことではない,とは言えなくなってくる.
Jenkinsも,ドレスの例のようなミスジェンダリングが害を起こすかどうかは,性同一性の定義だけで決まることではなく,経験的に調べて答えを出すべきだと考えている.そこでJenkinsは2つめの論拠として(提示される順序としてはこちらが先),Bailey, Ellis, & McNeil 2014など,トランスの自殺についての統計的議論をあげている.
理論的な検討について
予告したとおり,ここからはJenkins 2018をやや離れて,運動について理論的に検討するときやるべきことについて私見を述べたい.
まず,おそらくJenkinsと共有できるだろう点として,ここまでに書いてきたまとめにもすでに,以下のような主張が含まれている.
- 専門家による理論的検討は,運動の額面上の主張の矛盾を突くだけに終わってはいけない.そうした矛盾があるなら,運動の目的をうまく満たすような,べつのもっと理論的に洗練された定義を提案すべきだ.
繰り返しになるが,私はこれを,批判や検討においていつでもだれでもなすべきことだとは思わない.親切に目的をたずねるまでもなく批判し去るほうが望ましいような運動というのもたくさんあるだろう.だが専門家による批判を名乗るならば,たとえ最終的には運動の目的に同意しないとしても,理論的な不備を単に指摘するだけではなく,その不備を解消したうえで理論的な評価をはじめるのでなければ,せっかく備えた専門知を非専門家に還元せずに独占する結果に終わるのではないか.なんといっても運動家たちはだれもかれもが哲学者であるわけではないし,哲学以外にもさまざまな理論(社会学とか歴史学とか生物学とか)があり,だれもかれもがそのすべての専門家であることなどありえないのだから,そのすべてに不備がないことを要求するのは法外だ.
目的をうまく満たすような定義を探すといっても,哲学の場合,特別なことをする必要はない.
どんな哲学的議論も,検討したい帰結を受け入れるかどうか考えるにあたっては,関連のある前提をピックアップして,そこから妥当なやりかたでもとの帰結が出てくるかどうかをチェックする,という手続きを(暗黙的にであれ)とっているはずだ.その結果,議論は妥当だったが前提がまちがっていたという結論に至ることも,とくに珍しいことではない.こうした議論の構成・再構成こそが哲学者の腕の見せどころであって,帰結を拒否したいがためにずさんな再構成しかしなかったら,それは議論として価値が低いし,哲学的真理(それがなんであれ)に到達する方法として不十分だろう.
同様に,運動を評価するにあたっても,結論となる目的が妥当な形で出てくるように議論を再構成したうえで,そこであぶり出された諸前提がまともかどうかをチェックする,という手続きは,まったく同様に行えるはずだ.Jenkins 2018の仕事は,トランスの権利運動を支えるにはどういった性同一性概念が前提として必要となるかを明らかにしようと企てた論文だ.冒頭で触れたように,その再構成のうえでもなお,ほかの問題は残っているかもしれない.だが,妥当な議論へと再構成が済んだからこそ,それ以外の部分に目を向ける形で検討を進められるのであって,それを怠っていては,運動の評価(それがなんであれ)に到達する方法として不十分だろう.
もちろん,トランスの権利運動の目的を都合のいいように歪めれば,議論の再構成による擁護は容易になるかもしれない.Jenkins 2018が,トランスの権利運動を擁護しやすいように,その目的を弱い要求の形に入れ替えてしまっているのではないか,という批判は成り立つ.あるいは,自分がこれこそトランスの権利運動の目的だと思いこんだものだけを重視して,運動にとって本来だいじな目的(自認こそ性同一性の核だ,とか)を専横にも捨て去っているのかもしれない.
この点でも,やるべきことはふつうの哲学的議論ととくに変わらない.Jenkinsもトランスの権利運動が多様な目的を備えていることは認めている.そのうえで,自分がここで説明をつけようとするのはこの6つの目的である,と明示しているのだ.前提が満たすべき条件(つまり,前提から帰結できること)を明示することで,それが歪められていないかどうかを確認できるようになっているわけだ.
だが,ある理論的な議論がずさんな再構成に陥っているかはどうやったら判別できるだろうか.単に妥当なだけでずさんな再構成,というのはよくあるものだ.
そのひとつの指標は,自説とは異なるほかの立場を,どれだけしっかり検討できているか,だろう.ほかの再構成のしかたと比べて自説がなんらか有利であることを示すというのも,哲学ではよく行われることだ.そしてそれを見てとるのに有用なのは,自分と同様の専門家によって提示されたほかの立場を検討していること,すなわち,分野に応じてちゃんとした文献を参照しているかどうか,だと私は思う.
私は最近,哲学者の三浦俊彦によるトランスの権利運動への批判(三浦 2019/05)を再批判した声明に署名した.署名というのはけっこう不可逆的なことで,しばらく態度を保留にしていてもあとから署名するのはまったく問題ないが,署名しておいてあとからナシにするのは非常にむずかしい(だからこそ社会的な重みがある).私がそれでも署名に踏み切ったのは,三浦の議論が,特に「近年の定説を三段論法で確認」するというくだりで,トランスの権利運動の主張についてずさんな再構成に甘んじており,Jenkinsやその他の哲学者が行ってきた自認や性同一性についての哲学的議論を参照していない11にもかかわらず,哲学的議論として提示されており,単なる個人の差別的な発言という域を超えてしまっていて,公の場での批判に服すべきだと考えたからだ.
専門家が行う哲学的議論なのに,哲学の蓄積(論文)を無視しているのは,不誠実だと私は思う12.ただもちろん,不誠実であることは,議論がいいかげんであることや,当人が該当の問題をまじめに扱う気がないことを示唆するかもしれないが,議論が誤っていることの根拠としては弱い.場合によっては,ほんとうに過去まじめに扱われたことがなく,参照すべき文献がないこともありえなくはない.とはいえ今回の紹介で私は,三浦が参照すべきだった文献は実際にはたくさんある(Jenkinsや,そこで参照されている文献)ことや,三浦の議論が説得的でないことを,はっきり示しえたと考える.
声明や署名というのは,公表して自分の正当性を主張して,それで終わりというものではない.まったく逆に,そこで書き切れなかったことや,賛同した個々人の微妙な立場のちがい13について,継続して発表し,正当性を多角的に検証し,問題に取り組んでいく責任が生じると,私は思う.やりかたはひとそれぞれだし,かける時間も異なるだろうが,少なくとも何らかその責任に応答しなければ,個人を非難する共同声明は,数を頼みにした私刑や正義を笠に着た売名ともなりかねない.
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日本語では,「性同一性」「性自認」のどちらも,"gender identity"の訳として用いられる.これにはStoller 1964による導入以来の歴史的経緯が関係するが,現代では,「自認」という訳をあてるのは哲学的には問題含みだと思う.gender identityが自分じしんには明白に知られている(認識的透明性)とか,自分以外の人間の観察や証言はつねに自分の判断より弱い根拠にすぎない(認識的一人称特権)という,論争的な前提を受け入れているように見えてしまうからだ.ここでは「性同一性」とし,「自認」は"self-identification"の訳として用いることにする.関連することだが,「性」を"gender"の訳として当て,"sex"の訳としては当てない.Jenkinsは文章上の利便性から私と同じような選択をしたと述べている(原文注3)が,私はもう少し積極的な理由づけができると思う."gender"を「ジェンダ」と訳してしまうと,"sex"のほうは生物学的な特徴として簡単に特定できるが"gender"は専門用語をあてるほかない概念だ,と受け取られやすい.しかし,sexを生物学的特徴として定義するのは非常に難しく,そのような受け取りかたは生物学を単純化してしまっているおそれがある.このあたりは高橋 2006を見てほしい.↩
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Jenkinsによれば,この立場はJeffreys 2014に見られるそうだ.Jenkinsはこの立場を直接棄却する作業はほかに任せている.たとえば,Lester 2017がそうだ.Lesterはこの本の14章で,Jeffreys 2014をGay 2014と読み比べて批判している(もしかするとトランスをはなから信頼しない人間に対して説得的な批判ではないかもしれないが).ロクサーヌ・ゲイの本はいちおう翻訳あり(野中・訳 2017).また,セックスに基づく権利侵害はジェンダに基づく権利侵害より現状ずっとひどいのだから,ジェンダに基づくトランスの権利運動は現状ではあきらめるべきだ,という優先順位に基づく批判も,もしかしたらこれに含まれるかもしれない.↩
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たとえば,トランスの権利運動は,性同一性が男性であるが女装をたしなむような人間をも,女性として扱うことを要求するではないか,という批判は,この手の批判の具体例になるだろう.↩
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私はこの態度がはなから間違っているとは思わない.たしかに,他人の侮辱的な発言をとがめないでいながら,見て見ぬふりをしてとぼけるのは誠実な態度ではないし,そのせいで信頼を失うのも当然に思える.だが他方で,侮辱的であることがつねにそのような非難や不信に結びつくべきだとは限らない.我々はときには,侮辱することを道徳的に要請されることすらあるかもしれない.侮辱や人格非難のような,人間関係にまつわる道徳的評価がどういうときフェアなものになるかについては,Scanlon 20084章をはじめ,さまざまな研究がある.↩
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Jenkinsが参照するのは次の5つ. https://transequality.org/ https://srlp.org/ http://www.hrc.org/explore/topic/transgender https://www.stonewall.org.uk/our-work/campaigns/come-out-trans-equality https://www.amnesty.org.uk/issues/lgbti-rights また,https://www.amnesty.or.jp/lp/lbg/about/やhttps://stonewalljapan.org/resources/transgender-life/でも,同様の言及がある.↩
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ちなみにこの「民間の」〔folk〕というのは,べつに哲学に詳しくない民間人を見下して使われているのではなく,哲学分野ではよくある言いまわしだ.哲学者は概念を評価するとき,あるていど哲学独自の基準を使うため,民間の・通俗的な・素朴な定義では満足しない.循環性はそうした哲学的な基準の例だ.哲学を気にしない場合,なにかの概念の定義が循環していることは非常によくあることで,我々はべつにそれでたいていうまくやっていける.しかし,理論におけるほかの概念との整合性とか,極端な事例への適用とかを考えると,循環している定義は扱いづらい.そういうとき,哲学者は定義を洗練し,哲学的に扱いやすい形に変えていく.↩
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厳密には,哲学的な循環といってもいろいろあり,定義のあいだで循環が生じていてもそれは良性の循環であるから問題ない,ということもあるのだが,Jenkinsはおそらく悪性の循環だけを問題視している.↩
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ほんとは,ほかにも「哲学的な難点はあるけど,特に気にしなくてよい」というような態度もありうる.たとえば,議論しているあいだにもどんどんひとが死んでしまう,という状況では,哲学的な難点の解消は遠回りにすぎず,あとまわしにすべき,実践上の理由があるかもしれない.そして権利運動にはどうしてもそういう側面がある.ここでは,そうした遠回りがけっきょくは運動の目的をよりうまく達成するかもしれない,という,対立するべつの実践的な理由に訴えることにしよう.どちらの理由に重きが置かれるかは,状況によってまちまちだろう.↩
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たとえば,机というものがあり,それを構成するもっと小さな部品があり,机は部品の集まりと同じ1つのものだ,と我々は認めているように思える.ところが,この直観からさまざまなパラドクスが生じる.倉田 2017 pp. 2-34を読むと概要がつかめる.↩
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羞恥を感じるとき,そこに不正があるかどうかは微妙なところだ.たとえば,私が足を悪くしていて,人前で転んでしまい,恥ずかしいと感じるとしよう.足を悪くしているのだから転ぶのは当たり前かもしれないが,それでも私が羞恥を感じることにふしぎはない.だがここで,足が悪くても転ぶのは恥ずかしいという自分への否定的評価に,足が悪いほかのひとにまで不利な規範(健常者は転ばないのだから,足が悪くても転ぶべきではない)を課す,障碍者差別になる前提がない,と言えるだろうか.↩
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論文のような専門的評価にある程度さらされた文献を参照せず,ブログ記事などで済ませる傾向は,三浦 2019/06でも続いている.↩
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こうしたやや文献偏重な態度は,三浦本人から影響を受けている.三浦 2002, 2003, 2004, 2011の「論理パラドクス」シリーズは、ほぼすべてのパズルの解説に哲学内外の文献参照がついている非常に興味深い本で,これによって私は,いわゆる論理パズルが,頭の体操にとどまらない重要な哲学的問題と結びついていることを学んだ.↩
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ちなみに,個々人や諸立場の連帯を目指しつつ,その差異を等閑視しないというのは,クィア・スタディーズの信条でもあるはず.↩