あなたのkugyoを埋葬する

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十二月の怒れる男

先月(11月)は,文学フリマ東京35 出店者リスト - 文学フリマWebカタログ+エントリーで頒布する同人本に参加するための原稿を必死になって書いていた.私の場合,必死になるというのはこの20年変わらず,ことに集中するのに必死になるので大半を占めている.
その前の月(10月)は,11月に出版されることになる書籍の索引を考えるのに必死になっていた.

索引があるとよいとはよく聞く.翻訳のさいに索引が削られていると訳者(版元を含む)の態度に幻滅する,という話もきく.だが,そういうひとでも入手した本の頭から尻尾までに目を通したことはそれほど多くないのではと思う.私もそうだ.そして索引というのはそういうもので,単一のひとが持つ関心に応答するだけなら過剰である.複数のひとがその本を読むだろうこと,それらの関心をあるていど予測して先回りしつつも,予想外の関心にもある程度答えられるように,本の内容を大づかみして提示すること,という,かなり不安定な未来に期待して,索引をつくるのだ.
不安定な予測に基づくとはいっても,通読して内容をわかっている本なら,索引なんか簡単に作れるという気がするかもしれない.なにしろ議論を再構成して図示するとか,読解が難しいところの候補をいくつか検討するとか,明示的に検討されていない反論を考え出しておいてもとの議論のなかから自己擁護できる材料があるか探すとかいった作業をやりなおさなくてもいいのだ.ただキーワードを抽出し,その出現箇所を拾うだけ.多少の表記揺れを吸収すればいい.
そうだろうか? たしかに,構成が緊密な本,たとえば単一の著者の手になるモノグラフであれば,これは簡単かもしれない.しかし,さまざまな議論を集めたアンソロジーだとどうなるだろうか.両方の議論に同じ字面の言葉が出てきたとして,それは同じ見出し語として拾ってよいだろうか.あるいは,議論それぞれが同じ意味のアイデアを別の言葉で表現していた場合はどうだろう.それはぴったりと重なる意味で用いられているだろうか,それとも大部分が重なっているがちがいもあるのだろうか,そのちがいはアンソロジー全体の文脈においてどのぐらい重要だろうか.あるいは(悪いときには)索引作成者の考えすぎで,まったく関係ない言葉をゆがんだ観点から同一視しているに過ぎないのだろうか.また,同じ意味だとしても,片方の議論では中核的なアイデアだが,もう片方の議論では単なる例として提示されているだけかもしれない.こうした箇所全てが,索引のなかに等しく登場し,所在指示を与えられていてもいいだろうか.
こう考えると,索引をなぜ作るかという目的を設定するには,どのような読者を想定するか,という態度を決める必要がある.そして,索引においてどのような見出し語を選定するか,その所在指示をどこまで網羅的にするか,ということには,索引作成者が書籍全体をどのように理解するかという,これまたもっともらしい回答が複数ありうる問題に.同様に態度を決めなくてはならない.そして,アンソロジーや翻訳ならば,こうした態度決定は索引作成者が気ままにできるものではなく,おかしな態度や理解に対する批判を引き受ける責任を負わなくてはならないものだ.
これはかなり苦しい作業だ.また,索引には技術的な不明瞭さもある.たとえば,ここまでにも書いてきた「見出し語」「所在指示」といった索引作成上の用語や,それらがどのようなルールに一般的に従っているかは,ただ索引を見ているだけではわからない.
ここで私は1つ文献を紹介したい.藤田節子,本の索引の作り方地人書館,2019)だ.索引とはなんのためにあり,どれくらい作ればよいのか,どういう構造になっているべきか,それを実現するための具体的なプロセスはどうするとよいか,といったことがすべてまとまっている.また,このような文献が存在するということじたいが,索引づくりという行為,そして索引に価値を感じる態度を勇気づけてくれると思う.